仏教の最初期において説かれていた思想の根幹とは、それを要約して言うなら、「すべての見解を捨て去る」こと、言い換えれば、「想いから解脱する」ことであった。
『一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。(『スッタニパータ』第4章<アッタカ篇> Sn.894 =『ブッダのことば』』中村元訳・岩波文庫)
そして、仏教の原初においては、修行者に対して「信仰さえも捨て去る」こと、具体的に言えば、本稿の第5章で既に述べたように、「何も信じない」ことが理想とされていたのである。(『中村元選集・第13巻・P.482 参照)
『(師ブッダが現われていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアータヴィ・ブッダが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ビンギャよ。」』(『スッタニパータ』第5章<パーラヤナ篇> Sn.1146 =『ブッダのことば』中村元訳・岩波文庫)
『見終わってから、<世界の主・梵天>に詩句をもって呼びかけられ
た。
「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。〔おのが〕信仰を捨てよ。梵天よ。人々を害するであろうかと思って、わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ。」』(『サンユッタ・ニカーヤ』第1篇〈サガータ篇〉 =『悪魔との対話』中村元訳・岩波文庫 P.87)
では一体ゆえに、仏教の最初期においては、修行者に対して「何も信じない」ことが推奨され、理想とされていたのだろうか?
それは、何かを信じることは、究極の執着であり、その反対説の論者との間に争いや確執をもたらす要因を有しているからだ。
詰まるところは、最初期の仏教で説かれていたブッダの根本とは、世の中に存在する様々な哲学的・形而上学的見解の中から、いかなる見解をも選択しない(打ち立てない、依拠しない)ということ、これだと思う。
そして、ブッダの到達点とは、まさにそこにあったのだと思う。
以上が本稿においての根幹であり、結論である。
そもそも、最初期の経典に説かれている内容は、新しい層の経典と比べても、比較にならないほと懐疑的な色彩が強いと思う。
仏教の開祖であるゴータマ・ブッダは、その死後において、長い歳月をかけて、多くの人たちによって、様々なる超人的な属性(能力)が付与されていったのであるが、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダは、おそらくは自らの経験の領域のもの以外を相手にしない、ということが、その基本的なスタンスであったのだと私は理解している。
それは、釈迦仏教がきわめて実践的なものであったことを意味する。
人間の好みや価値観は様々である。それらは決して、一つの見解や思想(または宗教)によって、すべての人間を統一できるものではない。人間とは、そんな単純な生き物ではないだろう。
史実としてのゴータマ・ブッダは、おそらくはこのことを誰よりも熟知していた人であったに違いない。
そういった意味においても、仏教の原初の教え、つまり仏教の真理とは、現代において多くの人が言うような意味での宗教とは、非常にかけ離れていると言っても過言ではないだろう。
釈迦が説いたであろう原初の仏教(オリジナルな仏教)の教えとは、おそらくは現代の言葉で言えば、人間の心理(心のメカニズム)を深く洞察することによって、苦を滅する(あるいは、苦を軽減する、換言すれば、よりよく生きる)ために考え出された手法である、とでも言った方がより史実に近いのかもしれない。
そして、仏教の真理とは、後天的に刷り込まれた強い先入観や人間の本能によって深く覆い隠さたものを少しずつ排除していったところに、その真理への扉は開かれてくるのであろう。
『Sn.800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。 世の中にある数多くの見解の中から、これのみが絶対に正しいというものを何一つ選択しない、打ち立てない、依拠しない。
Sn.801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。
Sn.802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
Sn.803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。』
加えて言えば、彼は、これのみが究極である、あるいは、この教えが絶対的に正しく、それ以外は誤りである、などと想うこともないのである。
『 Sn.792 みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々多様なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダ(実践的認識)によって知り、真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。
Sn.793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。
Sn.794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。
Sn.795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。』
いかなる立場や思想(宗教)にも立脚することもなく、何ものも信じない者に、どのようにして他者と対立することがあり得ようか。
そして、ブッダの時代には、仏教という呼称さえも存在しなかったのである。
スッタ・ニパータに登場するゴータマ・ブッダは次のように言っている。
【『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。】(Sn.837)
その言葉は、最初期の仏教には、特殊な教義は何もなかったことを意味するものである。
【『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。】(Sn.837)
その言葉は、最初期の仏教には、特殊な教義は何もなかったことを意味するものである。