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Channel: 釈迦仏教の根本思想について
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「悟りの階梯」について

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 中村元氏は、修行者の進むべき「悟りの階梯」に関して興味深いことを言っている。引用者の主観が入らないように、そっくりそのまま引用してみようと思う。(以下 引用)

 『最初期の仏教においては修行の実践に関する階位的区別は考えられていなかった。僅かに「真理を究め明らめた人々」と「学びつつある人々」と「凡夫」の三種の区別が言及されているが(Sn.1038)、まだ述語とはなっていない。少し遅れて天界に生まれるという観念と結びついて、若干の区別が考えられるようになったが、それも問題とするに足りぬほどである。煩瑣な階位を与えたのは、後代の教義学者の仕事である。』(『中村元選集・第13巻・P.481)
 
 『四禅に関する説明は後に付加されたものである。』(『中村元選集・第15巻・P.29)

 『なお右に考察した宇宙論と関連して修行者の進みゆく階梯の組織が徐々に形成されつつあるのを認めることができる。かなり古い詩句には、(1)生存者と(2)欲望の領域に帰らない人と(3)彼岸に達した人との三種の人を想定している。
 
(1)<生存者)は輪廻するものであり、欲望のきずなと生存のきずなとに結ばれている。
(2)<欲望の領域に帰らない人>は欲望を捨て去ったが、なお生存のきずなとに結ばれている。
(3)<彼岸に達した人>は完く煩悩の滅無に達した人である。
 
 右の詩中に対する散文の説明では、もう少しづ識的に次のように比定している。―
 
(1)迷うに状態に帰ってくる人
(2)迷いの状態に帰ってこない人
(3)煩悩の汚れを滅しつくした人、尊敬されるべき人
 
 最後の「尊敬されるべき人」とは、いわゆる「阿羅漢」を意味すると考えてもよいが、初期には「仏」もそのようによばれていた。ともかく解脱した人をいうのである
 
 なお右の考えに似たものとして、他の一連の詩句において、貪りを断じた者、嫌悪を断じた者、迷妄を断じた者、怒りを断じた者、偽瞞を断じた者、高慢を断じた者について一々、『かれは決してこの世には戻って来ない。』という句をくりかえしている。〔ここに数えられている煩悩はジャイナ教の特に強調するものである。〕散文の説明によると「もどらぬ状態」(不還性)を得たのである。
 
 ところで、迷っている人がもはや欲求に悩まされたこの世界にもどって来ない人となるためには中間になお階梯がなければならぬと考えて、その中間に<修行に踏み入った>と<一度だけ欲望の領域にもどって来る人>という段階を考えた。
 
(前段階)凡夫の状態。迷っている生存者。
(1) 修行に踏み入った人。(預流)
(2) 一度だけ欲望の領域にもどって来る人。(一来)
(3) 欲望の領域に帰らない人(不還)
(4) 彼岸に達した人。(阿羅漢)
 
 ところで、右の聖者の四つの段階にはそれぞれ、それに向かって進んでいる状態と、ゆきついた状態とあるから、合わせると八つの状態が想定される。(四向四果・四双八輩)。また修行に踏み入った聖者(1)が一度だけ欲望の領域にもどって来る聖者(2)となるまでには欲望の領域に七度まではもどってくることが有り得ると考えられた(極七返生)。また「道の究極に達した人」「正覚者」でもなお学びつつある人であると考えられた。後世の教義学で究極のさとりに到達した人はもはや学ぶべきものの残されていない人(無学)であり、それ以前の程度まで体系化されている。これを受けてさらに複雑な体系をつくり上げたのは聖典の散文の部分およびアビダルマ文献における教義学者たちであった。』(『中村元選集・第14巻・P.255~257)
 
 誤解のないように、私は、後代に作られたという「悟りの階梯」について否定しているのではない。

 

『パラマッタ・ジョーティカー』

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 少し前に、ブッダゴーサの『パラマッタ・ジョーティカー』を読んだ。本書を読んだ感想を言えば、ブッダゴーサという人は、かなりの神秘主義者であるという印象を受けた。『パラマッタ・ジョーティカー』とはブッダゴーサによる『スッタ・ニパータ』の解説本である。『スッタ・ニパータ』に極度の神学的神話的解釈を加えれば、こうなるのかと思った。神秘主義に共感する人にとっては、たまらないだろう。
 
 ただ、その中で、私が以前から気になっていた箇所があったので、その部分をここに引用してみようと思う。それは、『スッタ・ニパータ』の第五章の「最上の<想いからの解脱>において解脱した人」の個所である。
(以下 引用)
 
 
 五・七 ウパシーヴァ学生の問い

〔暴流を渡る拠所を説いて下さいー無所有の境地〕
 
〔第1069偈ー第1061偈の註釈〕
 
(1069)「一人私は、釈尊よ。大きな暴流を」と尊者ウパシーヴァ。「頼らずに渡ることは出来ません。拠所(よりどころ)を説いて下さい。普(あまね)き眼ある方よ。それに頼ってこの暴流を渡ろうとするところの。」(第一偈)
 
  《一人私は》と「ウパシーヴァ経」〔が始まる〕。そこで、《大きな暴流》とは大きな暴流。《頼らずに》とは、人に或いは法にすがり付くことなしに。《〔私は〕出来ませんとは、〔私は〕出来ない。〔拠所(所縁)〕とは、頼り所(所依)。《それに頼って》とは、その法(主義)に或いは人に頼って。
 
(1070)「無所有を観じて思念あり、ウパシーヴァよ」よ世尊。「ないという〔想いを〕頼って暴流を渡れ。諸の議論を離れて、渇愛の滅尽を夜に昼に見よ。」(第二偈)
 
 今や、そのバラモンは無所有の境地(無所有処)を得ているが、更にそうなっていることも頼り所なのだと知らない。であるから彼のために世尊はその頼り所と、更にその上の出離の道とを示そうとして《無所有を》という偈を述べた。
 そこで、《観じて》とは、その無所有の境地(無所有処定)に思念して入り、更に〔そこから〕出て、無常などによって見て。《ないという〔想いを〕頼って》とは「いかなるものも無い」という〔境地に〕進んだその禅定を拠所(所縁)にして。
 《暴流を渡れ》とは、それから始めて進んだ観察(観)によって、それぞれに応じて四種もの暴流を〔君は〕渡れ。《諸の議論》とは、諸の疑惑。《渇愛の滅尽を夜に昼に見よ》とは、夜昼に寂滅(涅槃)を、明らかにして見よ。これによってかれのために現実の安楽住(現法楽住)を説くのである。 
 
(1071)「およそ一切の欲望に対して欲情を離れ」と尊者ウパシーヴァ。「無所有を頼って、他を捨てて、最高の有想解脱において解脱している解脱しているその人は一体、戻ることなく、そこにとどまるのでしょうか。」(第三偈)
 
 今や、〔尊者ウパシーヴァは〕、「諸の欲望を捨てて」(第1070偈c)と聞いて、鎮伏によって自分の諸の欲望が捨て去られたのを正しく見つつ、《一切の》偈を述べた。 そこで、《他を捨てて》とは、それより下の他の六種もの禅定を捨てて。《最高の有想解脱において》とは、七つの有想解脱のうち、最上の境地(無所有処)において。《その人は一体、戻ることなく、そこにとどまるのでしょうか、と質ねる。
   
 〔最高の有想の解脱〕
 
〔第1072偈・第1073偈の註釈〕
 
(1072)「あらゆる欲望に対して欲情を離れている、ウパシーヴァよ。」と世尊。「無所有を頼って、他を捨てて、最高の有想解脱において解脱しているその人は戻ることなく、そこにとどまるであろう。」(第四偈)
 
(1073)「もし彼が戻ることなく、多年にもわたってそこにとどまるならば、普(あまね)き眼のある方よ。かれは同じそこで解脱して清涼となりましょうか。そのような人に意識はありましょうか。」(第五偈)
 
 すると彼に対して世尊は、六万劫だけ〔そこに〕とどまることを認めて、第三の偈を述べた。 このように、その人がそこにとどまると聞いて、今度は、その人が〔そこで〕常住〔であるのか〕断滅であるのかを質ねて、《もしとどまるならば》と偈を述べた。
 そこで、《多年にもわたって》とは、多年もの年にわたって、〔歳月の〕群の山、という意味である。<多年にもわたって>とも読む。そこでは格変化を明確にして所有格を主格にすべきである。或いは《多くの》というこの〔語〕には「多くの」という意味があると言うべきである。或いは<多くの>とも読む。最初の読みだけだ一番よろしい。
 《彼は同じそこで解脱して清涼となりましょうか》とは、その人は、同じその無所有の境地で、種種の苦から解脱して清涼であることを得るのだろうか。寂滅(涅槃)に達して常住となって〔常にそこに〕とどまるのだろうか、という意趣である。《そのような人の意識(識)は滅するのでしようか》とは、或いはまた、そのような人の意識は取著なく、入滅するのだろうか、と断滅を質ねる。或いはまた結生を取る(他の胎に再生する)ために滅するのだろうかと、その人の結生をも質ねる。
 
〔第1074偈ー第1076偈の註釈〕
 
(1074)「あたかも焔(ほのお)が風の勢いによって消されると、ウパシーヴァよ」と世尊。「消えうせて名状すべくもないように、このように聖者(牟尼)は名の集合(名身)から離脱して消えうせて名状すべくもない(言表できない)。」(第六偈)
 
 すると世尊は、断滅・常住に近づかないで、そこに生じた聖なる声聞は取著なく入滅すること(般涅槃)を示して、《あたかも焔が》と偈を述べた。
 そこで、《消えうせる》とは、消えて行く。《名状すべくもない(言表できない)》とは、「〔あの人は〕これこれという方角へ行った」と世間の人の人の口にのぼらない(表示されない)。《このように聖者(牟尼)は名の集合(名身)から離脱して(解脱して)》とは、このようにそこに生じた有学の聖者は自然にまさにあらかじめ色身(肉体)から離脱(解脱)して、そこで第四の道(阿羅漢道)をおこして、名の集合(名身)を了知したので、再び名の集合(名身)からも離脱(解脱)して、両方の部門(色身と名身)から離脱し、漏尽(ろじん)者(煩悩を滅した人)となって、取著なき涅槃(寂滅)と呼ばれるところに《消えうせて》、「〔彼は〕クシャトリヤだ」とか、或いは「〔彼は〕バラモンだ」などと《名状すべくもない(表現できない)》。
 
(1075)「彼は消えて行ったのですか。或いはそれとも彼はいないのですか。或いは、本当に常住にして無病なのですか。聖者よ。それを私に、どうかよく説明して下さい。なぜなら、あなたにこの理(法)がわかっているのですから。」(第七偈)
 
 今、「消えうせる」と聞いて、〔彼は〕根本的に(如理に)その意味を了解しないので、《彼は消えて行ったのですか》と偈を述べた。その意味は〔次の通り〕。「《彼は消えて行ったのですか》。それとも《彼はいないのですか。或いは、本当に常住にして》=常住であるものとして《無病》=変化する性のないものですか」と、このように《聖者(牟尼)よ。それを私に、どうかよく説明して下さい》。なぜか。《なぜなら、あなたにはこの理(法)がわかっているのですから》と。
 
(1076)「消えて行ったものを知る方法(量)はない。ウパシーヴァよ」と世尊。「およそそれをもって彼を論ずる、その〔方法〕がかれについてはないのだ。一切の要素(法)が絶やされると、一切の言語の道も断たれたのだ」と。(第八偈)
 
 ウパシーヴァ学生の問い 終わる
 
 すると、かれに対して世尊は、〔それは〕そのように言うべきものではない、ということを示そうとして、《消えて行ったもの》と偈を述べた。そこで。《消えて行ったものとは、取著なく入滅した(般涅槃した)もの。《知る方法(量)はない》とは、色などという知る方法(量)はない。《およそそれをもって彼を論ずる》とは、その欲情などをもって論ずることの出来る。《一切の要素(法)》とは、一切の蘊(五蘊=色・受・想・行・識。存在=身心の要素(法)。他はあらゆる点でもう明らかである。
 このように世尊は、この経をも阿羅漢の境地の頂点をもってのみ示した。そして説示が終わると、前述と全く同じように法の領解があった、という。
   
 ウパシーヴァ経の註釈 終わる
 
(引用 終わり)
 
 
 ところで本書(『仏のことば』四)の訳者は、次のような註釈書の註釈を行っている。(以下 引用)
 
(第三偈のブッダゴーサの註釈の翻訳者の註)それより下の他の六種もの禅定・・・・・『南伝』四四、一六一頁一五行によると、四禅と無色定の中の下の二(空無辺処定と識無辺処定)。
 
(第三偈のブッダゴーサの註釈の翻訳者の註)七つの有想解脱・・・・・『南伝』四四、一七四頁註⑥には、「七有想解脱とは、四禅定及び下三無色定を指すものらん」とある。つまり四禅定と空無辺処定、識無辺処定、無所有処定の七であろう。sanna-vimokkhaを水野博士は「有想解脱」と訳し、渡辺博士は「想念のみ存する解脱」という。しかし中村博士は「想いからの解脱」と訳して、「無所有処には想念はないはずである」と註記にも述べておられる。はたしてそうであろうか。何もない、という意識のみがあるのではなかろうか。なお「想念による解脱」と解することもできよう。
(引用 終わり)
 
 
 
 ちなみに、中村元氏は、『ブッダのことば~スッタニパータ』(岩波文庫)の終わりの註釈の部分で次のような解説を施している。P.422~423(以下 引用)
 
無所有・・・原語akincannaは無一物、何も存在しないこうとをいう。註釈(CnN.; Pj.)によってみても、ここでは無所有処所を意味している。ただし註釈が書かれていたときにはすでに四無色定の観念が成立していたから、ブッダは無所有処定からさらに非想非非想定に入り、さらにそれを出て、より高い境地に入ったと説明している。しかしこれは明らかに原文からそれた説明である。
 
想いからの解脱・・・原語sannavimokkha.七等至のうちで最上のものである無所有処所をいう。さらにブッダゴーサは、それを梵天の世界と同一視している。
 この原語を「想念のみ存する解脱」と訳することも語学的には可能である。Fausbollは「想念による解脱」と解する。
 この解釈は、説一切有部や大乗仏教一般の教義と明らかに相違している(これらの学派の教義によると、梵天の世界は色界に属し、識無辺処や無所有処は無色界に属する)。この相違の示すことは、ブッダゴーサも説一切有部も、最初期の仏教の思想をそのままには伝えていない、ということである。
 ともかく無所有処には想念はないはずである。だからいずれにせよ「想いからの解脱」と解する方が適当であろう。
(引用 終わり)
  

第11章 部分的真理について

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  中村元氏は、仏教を語る際に「部分的真理」という言葉を強調する。
 
 「部分的真理」とは、他説(他宗教や他思想、あるいは他者の主張)の中にも部分的に真理が存在し、それを承認する、という寛容の精神をもった立場である。
 
 中村元氏によれば、「諸思想は部分的に真理を伝えているという主張はおのずから寛容の態度を成立せしめる」というのである。(『中村元選集・第18巻』P.178)
 
 つまり、仏教が、真理に到達しようとしたその手法とは、の反対の説を虚偽だとして一方的に否定するのではなく、それらを同じ真理の他のかたちとして、自己のうちに包括させてしまうと、いうことによってであるのである。
 
 部分的真理というものに関して、中村元氏は『中村元選集・第18巻』の中で次のように言っている。(以下 引用)
 
 「仏教は他の諸信仰をつねに尊敬し、力によってそれらに取って代ろうとはしなかった。当時宗教的論客のあいだでは、自分たちの教説を誇示し、他人の教義を貶すという傾向が行われていたが、ブッダはそれを斥けた。ブッダは仏教徒が仏教徒に対してのみならず非仏教徒に対しても施与を行うことを勧めている。かれは非仏教徒でも天に生まれることができるということを認めていた。(DN.vol.Ⅲ,p.571)或るアージーヴィカ教徒が業を信じていたために天に生まれることができたことをブッダは述べている。真に道徳的な生活を起こっていたバラモンたちをブッダは非常に尊敬していた。」(P.184)
 
 「なるほど仏教では種々なる思想の部分的真理を承認していたが、それを承認していたという事実は、実は人間存在のうちに普遍的理法なるものがあるということを前提としているわけである。人はあらゆるものを疑い、懐疑的になることができる。しかし懐疑的な思考という現象それ自体は、或る種の普遍的な理法ーそれを把握することは非常に困難であるかもしれないがーの存することを証するものである。疑ういうことも、何らかの合理的思惟の前提があってはじめて可能なのである。何らかの意味の普遍的理法を承認するのでなければ、論理的に首尾一貫した思考を行うことができない。」(P.213~214)
 
 「真理を見る立場に立つと、既成諸宗教のどれにもこだわらなくなる。どの宗教に属していてもよい。所詮は真理を見ればよいのである。原始経典によると、仏教外の一般の修行者(サマナ)やバラモンたちであっても、人間に関する真理を理解するならば、仏教を実践していることになるというのである。
 
 そうしてまた仏教は出発当初においては、諸宗教を通じて一般の修行者やバラモンたちに「真の修行者たるの道」「真のバラモンたる道」を明らかにしようとしたのであって、それ以外に別のものをめざしてしたのではなかった。したがって釈尊は必ずしも他の諸宗教を排斥しなかったといわれる。ジャイナ教の行者にさえも施食を与えよと説いている。(MN.No.56)」(P.224) (引用 終わり)
 
 私は「部分的真理」というものを考えてみたときに、経典の次の言葉を思い出した。(引用開始)
 
 『修行僧らよ、われは世間と争わない。しかし世間がわれと争う。法を語る人は、世間の何人とも争わない。
 
 世間の諸の賢者が「無し」と承認したことを、われも「無し」と語る。世間の諸の賢者が「有り」と承認したことを、われもまた「有り」と語る。
 
 世間の諸の賢者が「無し」と承認したことを、われも「無し」と語るとは何のことであるのか?常住・常恒・永久にして変滅をうけることのない物質的なかたちなるものは存在しない、と世間の賢者によって承認されているが、われもまた、それは存在しない、と語るのである。』(SN.Ⅲ,p.138 f.)
 
 『真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのである。』(Sn.884)(引用終わり)
 
 私は「諸々の<道の人>は同一の事を語らない」ということには、大まかに言えば、二つの意味があると思っている。
 
 その一つとは、今まさに述べた「部分的真理」であり、他説の中にも部分的に真理が存在し、それを承認している境地においては、同一の事を語らない、ということであり、もう一つは、囚われる想念から解き放たれた境地においては、一切の見解に依拠することがない故に、同一の事を語ることもない、ということであるのだろう。
 
 「ブッダの教え」(理法)というものは、敢えて言うなれば、次の経典の言葉で集約できるのだろうと思った。
 
 「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、個執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」(Sn.837)
 
 いわゆる最初期の仏教においては、特定の教義なるものは殆ど説かれていなかった、ということであるのだろう。
 
 『 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。』(Sn.789)
 
 『(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。』Sn.790 )
 
 『かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。』(Sn.794)
 
 さらにここで、私は、龍樹の『中論』から、おなじみの言葉を再度引用してみようと思う。
 
 『〔ニルヴァーナとは〕一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい〔境地〕である。いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。』(第25章・24)
 
  ブッダは何も説かなかった。繰り返して言うが、私は龍樹のこの言葉は、仏教の核心を表わしている一句であると思っている。
 
  「第12章 想いからの解脱について」に続く・・・↓

第15章 史実としての釈尊について

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  仏教最古の経典『スッタ・ニパータ』よりもさらに古い資料を含むと言われているジャイナ教の聖典『イシバーシャーイム』(聖仙のことば)の中には、サーリプッタとマハーカッサバなどがブッダとして紹介され、サーリプッタが仏教の代表者であるとされている。そこには、なぜかゴータマ・ブッダの名前が全く登場してこない。これは一体どういうことなのか?
 
 
 このことに関して、中村元博士の解説を分かりやすくまとめた安部慈園先生の言葉を引用してみようと思う。(以下『中村元の世界』(青土社)P.142~145より引用)
 
 
 近年刊行されたジャイナ教の古い典籍『イシバーシャーイム』(聖仙のことば)は、四十五人の聖仙の思想を伝えている。仏教者としては、サーリプッタ(本文中ではサーティプッタ)とマハーカッサバ(アハーカーサヴァ)などが言及されている。彼らは、みな「ブッダ」と呼ばれているが、サーリプッタは特に「ブッダであり、阿羅漢(尊敬されるべき人)であり、仙人である」と呼ばれており、「慈悲の徳」を強調していた、という。
 
 
 奇妙に思えることであるが、仏教の開祖である釈尊が、本書中のどこにも言及されていない。むしろ、ブッダとなる教えが、サーリプッタ(など)の教えとして紹介されていることである。すなわち、初期のジャイナ教徒からは、仏教は釈尊の教えとしてではなく、サーリプッタの教えとして伝えられていたこと、つまり、サーリプッタが最初期の仏教の指導者と、彼らから見なされていたという事実である。博士は、そこから、次の如く推理される。
 
 
  【釈尊は臨終時にもアーナンダその他の多くの極く僅かの人々につきそわれていただけの微々たる存在であったが、それを大きな社会的勢力に発展させたのは、サーリプッタその他の仏弟子のはたらきではなかったか?】(⑫390項)
 
 と。さらに、
 
 【『聖仙のことば』に伝えられている・・・・・教えが歴史的に古い。もとのものを伝えていて、現在のわれわれが<仏教>と考えている内容が実は後代の成立のものであるかもしれないという可能性も考えられる。】(前同)
 
 と提起される。かくの如く、サーリプッタの一側面を論じられたのち、博士は、さらに、「ブッダ」という観念すなわち仏陀観の変遷を次のようにたどられる。以下は取意して述べる。
 
(1)最初期のジャイナ教においては、『聖仙のことば』を見るかぎり、聖仙はすべて宗教の区別を問わず<ブッダ>であった。
 
(2)ところが、サーリプッタだけが特にブッダであることが強調されているのは、彼がブッダになることを強調したからではなかろうか。
 
(3)『スッタニパータ』の古い詩句には、ブッダということばがでてこないのは、この時代の仏弟子たちは、釈尊を特にブッダとも思わなかったし、また特別にブッダと称せられるものになろうともしなかったからである。
 
(4)次の段階として、尊敬されるべき人を、一般にブッダとか仙人とかバラモン仙人とかバラモンと呼んだ。
 
(5)このうち、ブッダは特別にすぐれた人と考えられ、その呼称として用いられるようになった。
 
(6)ついに、ブッダとは釈尊(あるいは釈尊に匹敵し得る人)のことであると考えられるようになった。(⑫391-393項)
 
  サーリプッタが、「ブッダ」と呼ばれているのは、これらの発展の初期の段階を示している、と述べられ、さらに、博士は、
 
 【なおこの原典から見ると、当時<仏教>というものは認められていなかったし、開祖釈尊なるものも、後代になって現われ出たのであろうと考えられる。】(⑫393-394項)
 
 (引用 終わり)
 
 
 余談ではあるが、「中村元選集⑫」の中で、中村氏は次のように解説している。(以下 引用)
 
 【修行者をサマナ(沙門)と呼ぶことは仏教でもジャイナ教でもかなり古くから行われていたが、仏教でも理想の修行者を「バラモン」とよんだ段階のほうが以前であり、最古のものである。】P.207
 
 【ジャイナ教の最古の原典である『アーヤーランガ』のガーターの中ではどこにもサマナという語が出て来ないで、理想の修行者は「バラモン」と呼ばれている。また仏教最古の経典『スッタニパータ』のうちの最古の部分である「パーラーヤナ編」では理想の修行者はつねに「バラモン」と呼ばれていて、「サマナ」とは呼ばれていない。】P.208
 
 【仏の弟子という表現が最初期の仏教には見当たらない。〔この点はジャイナ教の場合も同じである。〕】P.228
 
  【マウリヤ王朝以前には、仏教徒たることを示す(インド一般に認められた)定まった呼称がなかったらしい。】P.234
 
 【仏教の最初期には、戒律の体系もなかったのみならず、戒律に関する一定した呼称さえもなかったのである。】P.283
 
 【最初期においては仏教特有の戒律なるものは存在しなかった。・・・・・そうして仏教の本質なるものは、戒律規定のうちにあったのではなくて、それによって実現される智慧、すなわち、実践認識の実現のうちに求められねばならぬのであろう。】P.297 
 
 【普通には釈尊はいつも多勢のビクを連れて歩いていたように考えられ、仏典にもそのように記されているが、それは後世の仏教徒の空想であり、最古のことばによってみると、釈尊は森の中でただ一人修行していた。『ゴータマはひとり森の中にあって楽しみを見出す。』(SN.Ⅰ,p.4 G.)悪魔がゴータマに呼びかけた語のうちにも、『汝は森の中にあって沈思』(SN.Ⅰ,p.123 G.)という。】P.335
 
 【釈尊が千二百五十人の修行僧をつれて歩いていたなどというのは、全くののちの空想の産物なのである。(千二百五十人もつれて練り歩くなどということは、今日のインドでもヴィノーバやシャンカラ法王のような崇敬されている人でも不可能である。食糧の手配だけでも大変である。シャンカラ法王が巡歴する場合でも、ついて行く人は数十人にすぎないし、それもバスや自転車によって食糧を運ぶからこそ可能なのである。)】P.336

 【最初期の仏教ではひとりでいることを讃えていた。】P.336
 
 【最初期の仏教修行者は寺院や僧房はおろか、住む小屋さえももたず、村人にもつき合わなかった。】P.337
 
 【『スッタニパータ』のパーラーヤナ編やアッタカ編を見ても慈悲の教えは殆ど説かれることなく、専ら「執着するな、こだわることなかれ」ということが教えられている。慈悲の教えは『スッタニパータ』の新層になって現われる。仏典とジャイナ教聖典との所伝が一致するところから見ると、慈悲の徳を特に強調したのはサーリプッタであり、それ以降仏教が急激にひろまったのだと考えられないだろうか。『聖仙のことば』に記されているサーリプッタの実践は、『スッタニパータ』に述べられているものに大体対応する。】P.395
 
         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・終わり。

「アーサヴァの滅」について

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 仏教の経典には、仏教の核心に触れる箇所において、「アーサヴァ(asava)を滅する」という語が随所に散見するのであるが、古代インドの言語のエキスパートでもある山崎守一博士は、「アーサヴァの滅」の原意に関して、とても興味深いことを言っている。(「アーサヴァを滅する」という部分は、中村元氏が、「煩悩を滅ぼし尽くして」、あるいは「煩悩の汚れを滅し尽くして」と訳している箇所である。以下『沙門ブッダの成立~原始仏教とジャイナ教』P.157~160より引用)
 
 ブッダの教えは後世、様々な形で論理的に体系化されていくが、ブッダがネーランジャラー湖畔で何に目覚めたのかは、はっきりとわかっていないのが実情である。古い経典は随処において、「アーサヴァを滅ぼ尽くして、最後の身体をもっている」と説き、さらに、「アーサヴァを滅ぼ尽くした阿羅漢」という表現が見られる。
 
 最古の経典の一つと見なされる『ダンマパダ』において、
 
  『覚りを得るための方法に正しく心を修め、執著なく愛著を捨てることを喜び、【アーサヴァを滅ぼ尽くして】、彼ら輝く人たちはこの世において涅槃を得ている。』(Dhp.89) 
 
 とあり、さらに、『スッタニパータ』では、
 
  『精神を統一し、激流を渡り、最上の知見によって理法を知り、【アーサヴァを滅ぼ尽くして】、最後の身体を持っている如来、かれは、献菓を受けるに値する。』(Sn.471)
 
 と説かれている。
 
 激流とは輪廻の激流であり、最上の知見とは「全智者の智慧」であり、最後の身体を持つとは、もはや輪廻転生によってこの世に新たな肉体を受けることがないことを意味する。つまり、他の経典においては、最後の身体を持つことを、「再びこの世に戻らない」とも表現されているように、こては輪廻転生から解き放たれたことを意味し、当然のこととして、生まれることもなければ老いることもない。
 
 ところで、「アーサヴァを滅ぼ尽くして」の語源は、「キーナーサヴァ」(khinasava)であり、キーナ(khina 滅尽)とアーサヴァ(asava)との複合語である。アーサヴァの本来の意味は「漏れ込んでくる」ことであるにもかかわらず、仏教では、正反対の「漏出」と考えられ、通常、漏れ出る汚れ=煩悩と解釈されてきた。
 
 しなかしながら、仏教の姉妹宗教と言われるジャイナ教では、語源通りに霊魂に漏れ込んでくることを意味する。この語アーサヴァは、輪廻の大海という文脈の中で用いられ、【輪廻から解放されることを妨げるもの】である。なぜなら、船に漏れ込んでくる水は、かき出さないと船が沈んで対岸では到達できないからである。
 
 仏教においても古い詩節では、船に漏れ込んでくる水の意味を留めている。アーサヴァのない人こそ激流を渡った人であるとも言われ、『スッタニパータ』では次のようにも言う。
 
 『今日、われわれによってそれ(太陽)は見られた。よく世が明け、よく立ち昇り、その中に〔輪廻の〕激流を渡り、アーサヴァのない等覚者(よく目覚めた者)を、われわれは見た。』(Sn.178)
 
 『世間を知って、最高の目的を見、激流と海を横切って、繁縛のない、アーサヴァのないそのような人、彼を賢者たちは牟尼と知る。』(Sn.219)
 
 『かれは泥の中に横たわり、もがきながら、洲から洲へと漂流してきました。そしてその時、私は、〔輪廻の〕激流を渡った、アーサヴァのない等覚者(よく目覚めた者)を見、あした。』(Sn.1145)
 
 これらの詩節に見られる「輪廻の激流や海を渡って」という表現からもわかるように、「アーサヴァを滅ぼ尽くす」とは、「煩悩(=漏れ出る汚れ)を滅ぼし尽くす」のような、従来、仏教でなされてきた解釈よりも、ジャイナ教で行なわれてきた「輪廻をもたらす原因(が入り込むこと)を滅ぼし尽くす」という解釈の方が、より文脈がはっきりしていると言えよう。こう見てくると、大阪大学教授の榎本文雄の指摘に基づけば、アーサヴァは、最初期の仏教でもジャイナ教同様、「漏れ出てくる煩悩」というよりは、「漏れ込んで来る水」に喩えられる輪廻の原因としての煩悩・愛欲と考えられていたことが理解できる。(引用 終わり)
 
 ちなみに、山崎守一氏は、ジャイナ教の研究者でもあり、中村氏と同様に、ジャイナ教を理解すれば、仏教の理解がより深まり、仏教 を理解すれば、ジャイナ教の理解がより深まるのだと言っている。
 
 さらに、山崎氏は、『スッタ・ニパータ』は、言語学的に難解な箇所があるけれども、『スッタ・ニパータ』や『ダンマパダ』などと、多くのパラレル(並行句)を有している、ジャイナ教の古い経典を参考にすれば、それらの解読の大きな手助けとなるだろう、というようなことも言っていた。
 
 ところで、私は、山崎先生の『沙門ブッダの成立~原始仏教とジャイナ教』という本は、私が今までに読んだ数多くの仏教解説書の中で、間違いなく五本の指に入る、(仏教に興味のある人に対しての)お薦めの一冊である。
 
 

第8章 無我について

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 仏教で説かれる「無我」(非我)の「我」とは、先の章(第7章・アートマンについて)で述べたように、人間の本体として想定される、「形而上学的な意味合いでのアートマン」として捉えることが可能であろう。
 
 ところが、それにもまして重要なことは、最古層の経典において、「無我」(非我)の「我」とは、「私」と「私のもの」という意味として説かれている、ということである。
 
 つまり、そこで説かれている「無我」(非我)の「我」とは、(1)「私」とは無常であり、常住ではない、私は死ぬものであるということ、そして、(2)「私のもの」とは、私が「私のもの」「私の所有物」と思っているものも無常であり、常住ではない、いずれは無くなってしまうものである、とうことである。(もちろん、②「私のもの」は①「私」の中に含まれているとして、それらを総称して「無我」(非我)の「我」と解釈してもよいと思っている。)
 
 すなわち、仏教で言う無我(非我)とは、「私」というものは、死から決して免れ得ないものであり、さらに、私が「私のもの」「私の所有物」と思っているものとは、すべて、いずれは消滅してしまい、私のものでは無くなってしまうものである、という事実を、<ありのまま>の事実として<ありのまま>に知る、ということなのであろう。
 
 次の古い経典のガーター(詩句)は、仏教で説かれる「無我」(非我)の「我」の「私のもの」というものを、端的に言い表している言葉であると思う。
 
  『人々はわがものであると執着したもののために憂える。(自己の)所有したものは、常住ではないからである。この世のものはただ変化し、消滅すべきものである。 』(『スッタニパータ』Sn.805)
 
 『何物も自分のものでない、と知るのが智慧であり、苦しみから離れ、清らかになる道である。 』(『ダンマパダ』)
 
 私が「私のもの」であると思い込んでいる「私のもの」「私の所有物」とは、いずれは朽ち果ててしまい、失われてしまうものである。
 
 あるいは、私の「死」をもって、私が「私のもの」「私の所有物」と思い込んでいるものは、「私のもの」では無くなってしまうのである。
 
 人は、「私のもの」「私の所有物」とは常住であり永遠である、と思い込んでいるけれども、実はそうではないのである。
 
 さらに、古い詩句は、「無我」(非我)の「我」(=私)というものに関して、次のように語っている。私は、この『スッタニパータ』の「矢」という経は、先に引用した詩句と併せて、最初期の仏教の根幹を語っているものであると思っている。(以下、『スッタニパータ』Sn.547~593より引用)
 
  『この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。
 
 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。
 
 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。
 
  たとえば、陶工のつくった土の器が終りにはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。
 
 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。
 
 かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。 
 
  見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
 
 このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆ
きを知って、悲しまない。
 
 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。
 
 迷妄にとらわれて自己を害なっている人が、もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。
 
  泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
 
 みずから自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。
 
 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。
 
  見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。
 
  ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。
 
 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。
 
 だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
 
 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。──譬えば風が綿を吹き払うように。
 
 已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。』
 
 さらに、古い経典の詩句は、次のようにも語っている。(以下『ダンマパダ』より引用)
 
 『花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、―
 
 花を摘むのに夢中になっている人が、未だに望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。』(47~48)
 
 『大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟にいても、およそ世界の何処にいても、死の脅威のない場所は無い。』(128)
 
 そして、仏教においての死に対する姿勢は、『ダンマパダ』の次の言葉によって、集約できるであろう。
 
 『「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。―このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人があれば、争いはしずまる。』(1・6)
 
 つまり、経典には、人は、自らの「死」から逃れられない、人は死ぬものである、ということ、そして、「私」が「私のもの」であると思い込んでいる「私の所有物」もまた、いずれは無くなってしまうというこの理(ことわり)を真に知ったならば、心は静まりかえり、争いはなくなる、ということが説かれているのである。
 
 さらに、『スッタ・ニパータ』において「想念を焼き尽して」(Sn.7)と言われるように、想いから解脱す(解き放たれ)ること、そして、想いから解脱する、という想いからも解脱するということ、すなわち、それらを総称して、我執をなくす、ということが最初期の仏教で説かれるところの「無我」(非我)の根幹であると、私は思っている。
 
 
  「第9章 釈迦と輪廻について」に続く・・・・・↓

第13章 釈迦時代の仏教について

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  私は、初めて初期経典を読んだときに、それらの経典の大部分は、キリスト教やイスラム教の聖典などと比較して、経典によって、数多くの矛盾する内容を含み、さらには、同じ経であっても、前半部と後半部とに真逆のことが説かれたり、全くと言っていいほど一貫性に欠けていることに対して、とても愕然としたことを、今でもよく覚えている。
 
 言うまでもないが、大乗経典だけではなく、原始仏教聖典さえも、釈尊自身が書いたものではない。後者は、釈尊の滅後、仏弟子たちが、口伝によって、人から人へと伝えられていたガーター(詩句)を基に、ある時期に、正確に言えば、それらの大部分は、アショーカ王の時代以降に、長い年月をかけて編集が重ねられ、現代の形に至ったのであると考えられるのである。
 
 実際に経典自身が、経典は釈迦が亡くなってからはるか後代に成立した、ということを語っている。(参照『中村元選集・第14巻』P.282 参照)[cf.SN.ⅩⅩ,7.vol.Ⅱ,p.267. AN.Ⅴ,79,5(vol.Ⅲ,p.107)もほぼ同文である。cf.AN.Ⅳ,160.vol.Ⅱ, pp.147-148.cf.M.Winternitz:Gesch.d.ind.Lit.,Ⅱ.S.60]
 
 つまり、大部分の初期経典というものは、釈尊や釈尊の弟子が直接書いたものではなく、経典を書いた人たちが理解した仏教である、と言った方が、より正確であると言わなければならない。
 
 中村氏は、次のように言っている。
 
  『原始仏教聖典の中には、いろいろのことが説かれていて、矛盾も少なくはない。それらを何とかこじつけようとするのは、後代のアビダルマ教学者たちの仕事であって、思想史家の仕事ではない。』(『中村元選集・第17巻』P.41)
 
 さらに、初期経典を見ると、古い層と新しい層とでは、非常に思想の相違があるが、その古い層の経典の方が、より釈尊の時代の仏教に近いものを伝えていると見るのが、自然な見方なのであろう。
 
 まず最初に、「釈迦仏教の根本思想」を正しく理解するにあたって、われわれは、仏教に関して、一般的に考えられている先入観を払拭させなければならない。
 
 多くの既成概念を排した上で、わが国を代表する宇井伯寿博士や中村元博士などの仏教学の研究によって導かれる結論を、私なりに要約すれば、おおよそ次のようになる。
 
 (1)ゴータマ・ブッダの時代には、その修行者たる沙門たちは、僧院に住むことはなく、屋根のある家に寝泊まりすることはなかった。つまり、洞窟や樹木の下を住みかとし、果実や木の実を拾って食する以外は、托鉢による乞食によって、生命を維持する程度の食事をしていたのであった。
 
 古い経典である『スッタ・ニパータ』や『ダンマパダ』には、修行者は、痩せて血管が浮き出ていると語られている。
 
 『糞掃衣をまとい、痩せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、―かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。』(Dhp.395)
 
 なお、仏教の修行者ばかりではなく、ジャイナ教の修行者においても同様であり、ジャイナ教の聖典『ウッタラッジャーヤー』にも、次のように語られている。
 
 『鳥の足の関節のように痩せていて、血管が浮き出ていて、食物と飲物の量を知っている人は、憂いのない心をもって行動すべきである。』(Utt.2.3)〔山崎守一先生訳〕
 
 そして、(2)最初期の仏教においては、仏教の修行者たちは、糞掃衣と呼ばれる、ぼろ布をつぎ合わせたものを着ていたのである。これに関して、中村元博士は、次のように言っている。
 
 「少なくともサンガーティー(大衣)と呼ばれる衣をまとっていたことは確かであるが、それはぼろをつぎ合わせたものであり、ジャイナ教徒たちからは、それが仏教徒の特徴を示すものであるとみなされていた。」(『中村元選集・第12巻』P.320)
 
 また、(3)古い経典『スッタ・ニパータ』(第1章・7の冒頭の箇所)には、ゴータマ・ブッダが坊主頭であったことを語っている。
 
 『そこで、師にいった。「髪を剃った奴よ、そこにおれ。にせの<道の人>よ、そこにおれ。賤しい奴よ、そこにおれ」と。』
 
 『そのときバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは「この方(ブッダ)は頭を剃っておられる。この方は剃髪者である」といって、そこから戻ろうとした。』(『スッタ・ニパータ』第3章・4の冒頭の散文の箇所)
 
 『わたくしは家なく、重衣をつけ、鬚髪(ひげかみ)を剃り、ここを安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。』(Sn.456)
 
 さらに、これは、一般の人々には、ほとんど知られていないことであると思うが、(4)ゴータマ・ブッダの時代と、それ以降のインドにおいて、仏教では、葬儀は、一切執り行なわれていなかったのである。
 
 それでは、ゴータマ・ブッダの時代においては、誰が、葬儀を施行していたのだろうか?
 
 それは、インドでは、一般に、葬儀は、バラモン教の僧侶が施行するものであった。
 
 これに関して、中村氏は、次のように解説している。(以下『中村元選集・第3巻』P.361より引用)
 
 「・・・・少なくとも原始仏教の時代においては、出家修行者が在俗信者のために葬儀を執行することは決してなかった。インドでは一般に葬儀はバラモンの僧侶が施行するものであった。仏教徒はその葬儀によってはなんら死者の救いは得られぬと考えていた。『バラモンたちの誦する呪文をひたすら嘲り罵る』というのが原始仏教における指導者たちの態度であった。原始仏教聖典によると、出家修行者が葬儀に参与することを釈尊自身がこれを禁止している。人が死んだ場合には、葬儀によるのではなく、その人の徳性によって天に赴くともいう。葬儀は世俗的な儀式であるから、出家修行者はこれにかかわずらうことを欲しなかったのである。
 
 ところが、仏教がシナを経て日本へ来るとともに、仏教の形而上学的な性格のゆえに、いつしか死の現象と結びつけられ、亡霊の冥福は仏教の法力によってのみ得られるものであると考えられ、ついに今日では葬儀が仏教行事の主要なものと見なされるに至ったのである。」(引用 終わり)
 
 そしてまた、(5)「読経によって施しにあずかる」ということも、ゴータマ・ブッダの時代において、仏教では、禁止されていたのである。(以下『スッタ・ニパータ』より引用)
 
  『Sn.81 詩を唱えて〔報酬として〕得たものを、わたくしは食うてはならない。これは正しくバラモンよ、」このことは正しく見る人々(目覚めた人々)のならわしではない。詩でを唱えて得たものを、目覚めた人々(諸々のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目覚めた人々の)生活法なのである。』(Sn.480 参照)
 
 さらに、その上、(6)最初期の仏教においては、占星術や呪術的なことがらも禁止されていたのである。
 
  『師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。』(Sn.360)
 
 『わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行なってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行なったりしてはならぬ。』(Sn.926)
 
 
 
 
 
 これらによって示される結論は、どれも、一般読者においては、驚くべきものであるに違いない。
 
 その結果として、中村元博士は、次のように言っている。
 
 「古い詩句に説かれている仏教は、一般の仏教で説かれていた原始仏教とかなり異なるものである。」(『中村元選集・第14巻』P.298)
 
 誤解のないように、私は、「葬儀の施行」や「読経による施し(布施)」などを頭ごなしに否定しているのではない。
 
 ところで、一つ付言しておかなければならないことであるが、釈迦にとっては、後代に発展した仏教に見られるような世界を変革しようとする意図はなかったのである。
 
 なお、次の章では、仏教用語の成立時期と、縁起説と形而上学説との関係の時代的変容についての論考をおこなうことにする。
 
 「第14章 仏教哲学用語の成立時期について」に続く・・・↓

第10章 「異説の徒」について

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     『長部経典』の第一経である「梵網経」(聖なる網の教え)の中には、当時、釈迦の存命中に説かれていたという62の見解が列挙され、その62見によっては正覚や涅槃に導くものではなく、それらをことごとく排しながらも、梵天も、私たちも、光音天で死去し、ブラフマ神殿に生まれ変わった存在である』というバラモン教の世界観を彷彿させるような第63番目の仏教独自の形而上学的見解が述べられている。
 
 ところが、現存する最古の経典である『スッタ・ニパータ』の中でも最古層に属する経典(アッタカ篇)においては、すべての見解が捨て去られることが薦められている。
 
 『一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。』(Sn.894)
 
 『かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない 。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。』(Sn.800)
 
 さらに、最古の経典は、「多くの異なった見解」の論者たちを総称して「異説の徒」と呼んでいる。(Sn.892参照)
 
 そして、「多くの異なった見解」の論者たちが「異説の徒」であるなら、「梵網経」で説かれている第63番目の形而上学的見解の論者たちは「異説の徒」となるに違いない。
 
 ちなみに「梵網経」では誤った見解は62であるが、『テーラガーター』1217では、誤った見解は68であり、『スッタ・ニパータ』Sn.538では63となっている。
 
 つまり、本来原始仏教聖典においては、排されるべき「多くの異なった見解」の数は一定されて説かれてはおらず、最初期の仏教において、捨て去られる見解の数は、おそらく62に限定されていたのではなく、おおよそのところ62~68くらいあった、と見るのが史実に近いだろうと私は推察している。
 
 具体的に言えば、アッタカ篇などの最初期の仏教の経典に説かている根本とは、62の見解を「誤った見解」であるとして排斥しながらも、それとは別の第63番目の特殊な形而上学的見解を肯定しているといった種類の性質のものではなく、そこには「すべての見解」が捨て去られることが説かれている、ということである。
 
 では、一体何ゆえに、最初期の仏教の<修行者向けの教え>においては、「すべての見解」が捨て去られることが説かれていのだろうか?
 
 それに対する解答は次のとおりである 
 
 釈迦の存命中、多くの宗教者や思想家たちは、自らが打ち立てた見解(それらの見解の大部分が、形而上的見解に関するものであった)を基に、その反対説の論者たちと論争に至り、その結果として争いや摩擦を引き起こしていたのであるが、釈迦の基本的なスタンスとは、いくら論じても決着の着かない形而上学的な議論から離れる、ということであり、さらには、一切の見解を捨て去ったところに、言い換えれば、想いからの解脱によって解脱した境地において、安らぎ<ニルヴァーナ>を見いだしたのであったと私は思っている。
 
 スッタ・ニパータに登場するブッダは次のように言う。
 
 【 『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。】(Sn.837)
 
 それは、最初期の仏教においては、何らかの特定の教義(特殊な見解)が説かれていたのではなく、一切の見解(想い)から解き放たれることが推奨されていた、ということを意味しているのであろう。(在家者には「死後の天生-応報の思想」が説かれていた。)
 
 正直に言って、これらのことは、「史実としてのゴータマ・ブッダが修行者に対して何を説いたのか?」という、ことを探る際に、看過できない根本的な問題であると私は思っている。
 
 もちろん、私は、「梵網経」で説かれている仏教独自の(おそらく後代の仏教教学者が創作したであろう)第63番目の形而上学的見解を「悪しき見解」であるとして頭ごなしに否定しているのではない。
 
 ただ、仏教は、時の経過と共に、「ブッダの神格化」が進み、思想的な変容が起こっていったことは間違いない事実であると思う。 
 
 要約すれば、後代(少なくともアショーカ王統治時代以降)に編纂された経典の記述の多くは、最古の経典であるパーラーヤナ篇やアッタカ篇などに説かれているブッダの教えと矛盾する内容が散見するのであるが、おそらく新しい層の経典が書かれた時代に思想的変容が起こっていった可能性を勘案すれば、これらの理由(最古層の経典と新しい層の経典との矛盾)が容易に氷解されてくるのである。
 
 いずれにしても、最古層の経典に書かれている内容を理解し共感する人は、究めて稀であると私は思っている。
 
 多くの人は、やはり、超越的(超感覚的)なものに憧れるのだろう。
 
 そうであるからこそ元々人間であった釈迦には、空中や水中を自由自在に飛びかったり、壁を通り抜けたり、あるいは前世や来世の世界を見通せるといったような超人的な属性が付加されるようになっていったのだろう。

もちろん、それらを信じることには、私は、何も問題はないとも思っている。


 
 
 「11.部分的真理について」↓に続く・・・・

インドに行って来ました!

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  インドに行って、昨日帰ってきました。
 
 行く前に想像していたイメージとは、やはりかなり違っていた。

 と言うよりは、6月のインドは暑すぎる。はっきり言って、あの暑さは日本の感覚からして尋常ではない。日中は40℃を超えて、こまめな水分補給なしにはバテてしまう。(以前、一年のうちで最も暑い時期に行ったタイよりもはるかに暑かった。)ちなみにインド滞在中は、雨は一度も降らなかった。
 
 そして、インドは、予想以上に広いと思った。町から町まで、車をチャーターして5~6時間はかかった。そして、次の町まで5~7時間は普通にかかる・・・・・。
 
 町に入ると、野良牛や猿やリスなどが、いたるところにいる。路上にいる野良牛たちは一体何を食べているのだろうか?気になって見てみたら、一面に広げられていた残飯を食べていた。
 
 ハイウェイ(高速道路)にも野良牛が普通に横断している。ノーヘル(ヘルメット無し)の3~4人乗りのバイクは普通で、中・小型のトラックには人が何人もへばり付いて乗っている。左端(車は左側通行で、右ハンドル)を逆走している車もある。それと、チャーターして乗った車の運転があまりにも荒すぎる。(この人の運転テクニックはおそらくレーサー並みだった。)普通の人の運転テクニックのレベルも、おそらく見た感じ日本のレベルの比ではない。
 
 インドには古い車が多く走っていて大丈夫なのだろうかと思っていたが、案の定、高速道路で、ダイヤが脱輪して(車軸ごとはずれていた)、一台の中くらいのトラックが横転していた。ちらっと見たら、乗っていた人たちは不思議と怪我(けが)した様子はなかった。
 
 もう一つ、インドは日本に比べて物価が安い。日本と比べて8分の1くらいだろうか。全くの観光地ではないところで、大きめのマンゴーを10個くらい袋に入れてもらったら120ルピーしかしなかった。
 
 あと、インドは何と言っても貧困の国だと感じた。いたるところで、5~9歳くらいの少女がやってきて、お金をくれと懇願してくる。多くの子供にちょっとだけ布施をしようと思っていたが、一緒にいたインド人から止められた。人が多い場所でお金をあげている光景を見られたら、他の大勢の子どもたちが現われてきて収集がつかなくなり危険であるというのだ。
 
 今まで34ヵ国くらい行ったが、これだけ町中が汚くて貧困な場所は初めて見た。もの乞い、というか、古代インドにあった托鉢というものも、やはりそこで自然に興った習慣なのだろうと思った。
 
 話は変わるが、食事は、朝食はパンと卵焼き(なぜか白身だけ)とチャイかコーヒーであとはカレーずくめだった。カレー好きの私だが、ここまでカレーばかりだと、日本に帰って来てから、当分の間はカレーは食べなくていいと思った。
 
 旅の途中で、デリー大学卒の宗教と歴史通の人と親しくなり、宗教に関して、ヒンドゥー教に関していろんな話をした。
 
 インドには、イスラム教徒もいるが、やはり何といってもヒンドゥー教徒が断然多いと言っていた。そして、その大部分の人が死後の輪廻転生を信じているらしい。
 
 ところで、ジャイナ教徒について、その人に聞いてみたところ、以前街中で全裸のジャイナ教の修行者を一度だけ見たことがあると言っていた。
 
 ちなみに、せっかくインドにきたからアグラにも行った。アグラには世界遺産タージ・マハールがある。話によれば、当時の国家の財政が転覆するくらいの莫大な資金がその建設費に投入されたらしい。はっきり言って、タージ・マハールはヤバすぎる。以前行ったバチカンのサン・ピエトロ寺院に匹敵するほどだと思った。大理石に数々の宝石が埋め込まれているこの建設物は、坪単価いくらくらいするのだろうかと思った。そして、そのお金は一体、元はと言えばどこから来たのだろうか?
 
 あと、タージ・マハールは基本的にはヒンドゥーではなくイスラム教の様式で作られた墓だ。外壁をよく見ると、たしかにコーランの経が書かれている。

そして、聞いた話によれば、多くの仏教僧はペルシャやトルコあたりから攻めてきた侵略者たちによって殺害され、その一部が外国に逃れて行ったのだという。
 
 余談ではあるが、現代のインドには仏教はほとんど残っていない。(全くないわけではないが)ただ、ガウダマ・ブッダは、ヒンドゥー教の神の中に組みこまれ、仏教のブッダの話もまたヒンドゥー教的にかなり脚色されているようだ。
 
 ところで、宗教通のインド人から、『マハーバーラタ』と『ギーター』を是非読むように薦められた。ちなみに、
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第7章 アートマンについて

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 ゴータマ・ブッダは、ジャイナ教の実質的な教祖であるマハーヴィーラと同様に、宇宙の根源たるブラフマンの存在を想定せず、それを排斥したと言われている。
 
 ところが、仏教とジャイナ教がとった手法の最大なる相違とは、ジャイナ教が永久不変なるアートマンを想定していたのに対して、仏教は、宇宙の本体たるブラフマンの存在と同様な仕方で、永久不変的なアートマンの存在を想定しなかった点にあると言ってよい。
 
 では、無我説を標榜する仏教は、アートマンの存在を想定していなかったけれども、そもそもゴータマ・ブッダは、永久不変たるアートマン(霊魂)の存在を否定していたのだろうか?
 
 言うまでもないが、「中部経典63」(毒矢の譬えの経)において、ゴータマ・ブッダは、永久不変たるアートマンの存在の有無について、一貫して沈黙の姿勢を貫いている。それは、仏教において「無記」と言われるように、アートマンの存在に対して、有とも無とも解答を与えない立場を言うのである。
 
 しかし、そうであるなら、ゴータマ・ブッダは、一体何故に、アートマンの存在の有無について、沈黙したのだろうか?
 
 具体的に言えば、ゴータマ・ブッダは、一体何故に、アートマンの存在を否定も肯定もしていなかったのだろうか?
 
 そのことに関して、テーラワーダの僧侶は、ゴータマ・ブッダは、永久不滅なるアートマンを見つけられなかった、と説明しているという。
 
 「中部経典22」の中に、次のような興味深い記述がある。
 
 『修行僧たちよ、私は、そうではなく、また、そうは言わないのに、・・・・・・。修行僧たちよ、私は以前も今も、苦しみと苦しみの止滅だけを教えるのである。』 
 
 さらに『中部経典63』に登場するブッダは次のように言っている。
 
 『・・・・・という見解があっても、しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。わたしは現実に(現世において)これらを制圧することを説く。』
 
 ゴータマ・ブッダは、永久不滅なるアートマンを見つけることができなかった。しかし、苦しみを終滅するためには、ブラフマンの存在の有無はもちろんのこと、アートマンの存在の有無さえも、知る必要がなかったのである。
 
 つまり、重要なことは、苦しみを終滅するためには、どこまで知ればいいのか、そして、どこから先は知らなくてもいいのか、ということだと思う。
 
 アートマン(霊魂)が「有る」のか「無い」のか、ということについては、苦しみを終滅させるためには、知る必要のないことである。
 
 そして、アートマンの存在に依拠することは執着であり、見つけられないもの、仮説、見解に過ぎないものに執着していても、苦しみは終滅しない。
 
 アートマンは、「有る」かもしれないし、「無い」かもしれない。それが「有る」のか「無い」のかは、分からない。
 
 想いから解脱してしまった人は、囚われる想念から解き放たれてしまっているのだから、それが「有る」のか「無い」かは、測る基準がない、もはや測れない、ということになる。
 
 つまり、釈迦のとった手法とは、ブラフマンの存在だけではなく、アートマンの存在さえも想定しない、依拠しない、ということであり、それと同時に、ブラフマンとアートマンの存在を否定もしない、ということになるのだろう。
 
 以前、奈良康明博先生は、私に次のように言われた。
 
  『釈尊は、「霊魂の不滅説」を説かなかった。しかし、それを否定することもなかった。』と。
 
 私は、ここが、釈迦の絶妙なる教えを理解できるか否か、そして、それを受け入れられるか否かの、大きな分岐点であると思う。
 
 具体的に言えば、人は、アートマンを肯定する立場に立脚すると、アートマンの否定論者と対立することになり、かつ、アートマンを否定する立場に立脚すると、アートマンの肯定論者と対立することになる。
 
 これは、アートマンやブラフマン、そして、死後の世界の有無のだけではなく、すべての形而上学的難題に関しても同様である。
 
 そもそも、世界の宗教や思想の大部分は、様々な形而上学的見解を土台にして打ち立てられているが、打ち立てられる土台がな者には、それが有っても無くても、そこには依拠する見解が無いのだから、崩れようにも崩れようがない、崩れることがない。
 
 つまり、ゴータマ・ブッダがとった手法とは、従来の伝統的なウパニシャッドの根本理念である輪廻転生説とアートマン説に基づく梵我一如説には立脚することもなく、さらには、すべての形而上学的見解だけではなく、一切の哲学的・宗教的見解から離れたものなのである。
 
 だから、最初期の仏教では、「信仰を捨て去れ」などと、平然と言えるのである。
 
 囚われる想念から解き放たれてしまっている人には、それを測る基準がない。測る基準がない「想いからの解脱において解脱」してしまった人は、人と争うこともない。
 
 ところが時の経過と共に、仏教では、そもそもアートマンの存在の有無は「無記」であるはずなのに(「中部経典63」毒矢の譬えの経:参照)、アートマンは存在しない、と解釈する教学者たちが現われてきたのである。
 
 中村元氏は、『中村元選集・第18巻』の中で次のように言っている。
 
 「仏教は恐らく、我執をなくする方便として説かれた無我説を、理論的な問題として固着しすぎたかたむきがある。」 P.43
 
 
 人は現世において、アートマンの存在を見た人はいない。しかし、それは「現世」に限定した話である。
 
 つまり、ブッダは「アートマンは無い(存在しない)」とは言っていない。
 
 アートマンは、ヒンドゥー教が説くように、もしかしたらあるかもしれない。
 
 ただ、ゴータマ・ブッダのとった手法とは、それらの存在の如何(死後の行方)を知ることができなくても、より厳密に言えば、そういった形而上学的戯論(プラパンチャ)から離れることが、心の平安たるニルヴァーナの境地に至る早道であり、裏を返せば、ゴータマ・ブッダのとった手法とは、そういった諸々の形而上学的見解から離れることによって具現されるものであったのであろう。
 
 要するに、想いからの解脱において解脱してしまった人(=ブッダ)にとっては、生きているうちには決して知ることができない、<死後の輪廻の行方>(「アートマンの存在」あるいは、「死後の意識の存続」など・・・)に関しては、「無記」(no answer)なのである。
 
 『かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても願うことはない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。』(Sn.801)
 
 『想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行ない、この世もかの世も望まない。』(Sn.779)
 
 最初期の仏教で説かれていたことは、人間の本性の、言い換えれば、人間の脳の機能への反逆であるとも言えそうである。
 
 釈迦のとった手法とは、本当に、とんでもないものである。
 
 そうであるからこそ、後代の仏教は、人間の本性の、あるいは人間の根源的な願望を、その教義の中に取り込んでいったのであると私は捉えている。
 

 「第8章 無我について」に続く・・・・・・・↓
  
 *訂正中に、誤って全文を削除してしまったため、新たに投稿してしまいました。

第12章 信念の確実性と根拠について

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 古代インドに伝わるウパニシャッドの伝承によれば、人間の本体である永久不滅なるアートマンと宇宙の根源たるブラフマンとは本来同一のものであると言われている。
 
 それらの伝承による基本的理念によれば、修行者は、修行を積むことによって、業によって霊魂に付着している微細な物質を取り除き、それによって完全に真我となったアートマンはブラフマンに帰入する、つまり、アートマンとブラフマンとが本来あった状態(ブラフマン=アートマン)に戻ることにより、苦しみの輪廻の生存から解脱することができると説かれている。
 
 しかしながら、ウパニシャッドの哲学を起源とするバラモン教の根本でもある梵我一如(ブラフマン=アートマン)説という形而上学説は、それが真実であるという絶対的な確証と根拠をもち得るものなのだろうか?
 
 オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889~1951)によれば、数学などのはっきりした論理以外に、先人が説き、当たり前のこととされているものはすべて「根拠がない」という。
 
 そして、ウィトゲンシュタインに詳しいある哲学者(エグゼル氏)によれば、我々が一般的に信念などと称しているものはすべて、実は誰かが、どうだこうだと理屈を並べ立てて、それについて根拠があるように装っているだけであるというのである。
 
 これは古代インドや西洋の形而上学の伝統だけに限った話ではなく、ア・プリオリ(先験的、超越論的)の領域に触れる哲学や思想上の根本問題に関する事柄についても同じであると思う。
 
 誤解がないように、ウィトゲンシュタインは、それらには確証や根拠はない、と言っているわけであり、それらが嘘であり、非真理であると言っているのではないと私は理解している。
 
 つまり、私は、それらが嘘であり、非真理である、という根拠もない、ということであるとも思っている。
 
 さらに、その哲学者によれば、ウィトゲンシュタインは、それまでの哲学者が形而上と形而下を区別できずに、ごちゃ混ぜ状態にしていたものを無効な論であることを示唆しているのだという。
 
 こういったことに関して、「長部経典13」には、次のような興味深いことが語られている。(以下 引用)
 
 十二 「では、ヴァーセッタよ。三ヴェーダに詳しいバラモンたちの内で、一人でも梵天を直接見たものがいるであろうか。」
 
 「いいえ。いません。ゴータマよ。」
 
 「では、ヴァーセッタよ。三ヴェーダに詳しいバラモンたちの師の内で、一人でも梵天を直接見たものがいるであろうか。」
 
 「いいえ。いません。ゴータマよ。」
 
 「では、ヴァーセッタよ、三ヴェーダに詳しいバラモンたちの師の七代前にまで遡って一人でも梵天を直接見たものがいるであろうか。」
 
 「いいえ。いません。ゴータマよ。」   ―中略―
 
 十五 「ヴァーセッタよ。三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、知らないし、見てもいないものとの共生の道を教えようとしている。すなわち、『これが正しい道である。これが〔世俗からの〕離脱に至るまっすぐな道である。これを行うものはブラフマン(梵天)との共生に導かれる』と〔説いているが、〕それは筋がとおらない。ヴァーセッタよ。たとえば、一列に並んだ盲人たちは、先の者も見えず、中程のものも見えず、あとの者も見えない。三ヴェーダに詳しいバラモンたちのいったことは、その盲人の列の喩のようである。先の者も〔梵天を〕見ていない、中程のものも〔梵天を〕見ていない、あとの者も〔梵天を〕見ていない。三ヴェーダに詳しいバラモンたちのいったことは、笑うべきことであり、無意味であり、むなしいことであり、本当でないことである。
 
 十六 ヴァーセッタよ、どう思うか。三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、他の多くの人々と同様に、月と太陽を見て、月と太陽の昇るところ、沈むところにたいして、祈願し、賛嘆し、合掌して、拝みながら巡るだろうか。」
 
 「ゴータマよ。その通りです。」....   ―中略―
 
 二十四 「ヴァーセッタよ、たとえば、この満々としたアチラヴァティ川が、鳥が飲めるほど岸近くに、水が迫っているとき、向こう岸に用があり、向こう岸に渡りたいと思っている人がやって来たとする。そして、その人が、こちらの岸に立って、向こうの岸に向かって対『岸よ。こっちへ来い』と呼んだっとしよう。ヴァーセッタよ、どう思うか。その人の呼びかけに応じて、懇願に応じて、希望に応じて、思い通りに、アチラヴァティ川の対岸が、此方へやってくるであろうか」
 
 「ゴータマよ。そのようなことはありえません。」
 
 二十五 「ヴァーセッタよ。それと同じように、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、バラモンとなるべき特質を捨てて、それに反する特質を守り、次のようにいう。『われらは、インドラに呼びかける。われらは、ソーマに呼びかける。われらは、ヴァルナに呼びかける。われらは、イサーナに呼びかける。われらは、パジャーパティに呼びかける。われらは、梵天に呼びかける。われらは、マヒッディに呼びかける。われらは、ヤマに呼びかける。』と。ヴァーセッタよ。三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、バラモンとなるべき特質を捨てて、それに反する特質を守りながら、呼びかけに応じて、懇願に応じて、希望に応じて、思い通りに、身体が亡びた後、死んだ後、梵天と共生するであろうというが、この事に根拠はない。」(引用 終わり)
 
 いずれにしても、 世の中には「語り得る」ものと「語り得ぬ」ものとがあると思う。
 
 そして、世の中には「語り得る」領域のものよりも「語り得ぬ」領域のものの方がはるかに多いのだ。
 
 こういったことを踏まえて、ウィトゲンシュタインがこれらについて言及する遥か二千年以上も前に、ゴータマ・ブッダは、これと同じことを知っていたのは間違いないだろうと、私は思っている。
 
 そうであるからこそブッダは、一切の(哲学的)断定を捨て去さることを薦めるのだろう。
 
 ただ、これを読んだ一般読者の中で、それなら、釈迦の手法は、証明不可能な問いに関わり続けることは無意味であるとし、形而上学的難問に踏み込むことの意義に疑問を投げかけ、判断中止(停止)の態度表明をしたサンジャヤ・ベーラティップッタの懐疑論と同じではないのかと主張する人がいるに違いない。
 
 ところが、サンジャヤは懐疑論のままで終始一貫しているのに対して、釈迦のとった手法とは、想いから解脱する、という想いからも解脱する、というものであった。
 
 最初期の釈迦の仏教の境地とは、それを敢えて言えば、一切の見解を立てることも、さらには、そういったものに依拠することもない「無立場の立場」の体現である、ということになるのだろう。
 
 ただ、ここで言う「無立場の立場」の「立場」とは、無立場の立場という「立場」がある、ということを言っているのではなく、無立場の立場という「立場」さえもない境地なのである。
 
 つまり、釈迦のとった手法とは、まさにサンジャヤの懐疑論を乗り越えたところにあったと捉えてよいと思う。
 
 先の章においても詳しく言及したが、「ブッダは何も説かなかった」とナーガールジュナ(龍樹)は言っている。(『中論』第25章・24 参照)
 
 それは仏教の真髄を表わしている言葉だと思う。
 
 そして、禅宗においては、禅は語れない、語ったらそれは禅ではない、と言われるのも、これとまさに同じ意味であると思う。
 
 スッタ・ニパータに登場するブッダは次のように言っている。(再度、引用する。)
 
 Sn.837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
 
 釈迦時代の仏教においては、そこには後代の仏教で説かれるような、やかましい特殊の教義はなかったのである。
 
 さらにスッタ・ニパータに登場するブッダは次のようにも言っている。
 
 Sn.839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
そしてさらには、その見解にも主張にも一切の例外はなく(後代の仏教では数々の例外を想定していったのではあるが)、これがまさにゴータマ・ブッダ(釈尊)が到達した結論なのだろう。
 
 『Sn.894 一切の(哲学的)断定を捨て去ったならば、人は世の中で確執を起こすことない。』
 
 そういったわけで、釈迦は、「語り得るもの」と「語り得ぬもの」の境界を知っていた、ということであり、「語り得るもの」とは、人間が生きているうちには容易には知ることのできない領域に関するもの(ア・プリオリ、形而上のもの)であり、さらには「語り得るもの」とは、苦を終滅させる方法であり、釈迦は、まさに後者を断定して説いたのである。
 
 『中部経典63』に登場するブッダは次のように言っている。
 
 『それ故にここにわたくしが(いずれとも)断定して説かなかったことは、断定して説かなかったこととして了解せよ。またわたくしが断定して説いたことは、断定して説いたこととして了解せよ。...しからば、わたくしは何を断定して説いたのであるのか。「これは苦しみである。」「これは苦しみの起こる原因である。」「これは苦しみの消滅である。」「これは苦しみの消滅に導く道である。」ということを、わたくしは断定して説いたのである。何故にわたくしはこのことを断定して説いたのであるか。これは目的にかない、清らかな修行の基礎となり、世俗的なものを厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためになるものである。それ故にわたくしはこれを断定して説いたのである。』
 
 なお、ウィトゲンシュタインは次のようにも言っている。
 
 『われわれの信念には根拠がない、これを覚るのが難しいのだ。』と。 (『確実性の問題』166節)
 
 そして、 『中部経典72』に登場する釈迦は、これと似たようなことを言っている。
 
 「ヴァッチャよ、あなたは分からなくなるに違いない。迷うに違いない。ヴァッチャよ、この教えは意味が深く、洞察しがたく、さとりがたく、寂静で優れており、思慮を超え、微妙であり、賢明な人によって知られるものである。異った見解を持ち、異った信を持ち、異った喜びを持ち、異った修行をし、異った行いをするあなたには知りがたいのである」
 
 さらにスッタ・ニパータには次のようにも語られている。
 
 Sn.21 「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。」
 
 あと、ウィトゲンシュタインは次のようにも言う。
 
 「私を理解する者は、私の書物を通り抜け、それを踏み台にしてその上に立つ。そして最後に、私の書いた事柄の無意味さを知るに至る。私の本はこのような説明方法を用いた(いうなれば、私を理解する者は、梯子をのぼり詰めたあとで、その梯子を投げ捨てなければならないのだ)。私を理解する者は、この書物を乗り越えなければならない。彼は乗り越えたとき、世界を正しく見るようになる。」(『論理哲学論考』6.53)

 「第13章 釈迦時代の仏教について」に続く・・・・・↓

第16章 他者への愚痴と謗りについて

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 人間においての意識とは、大まかに言えば、他者に対する意識と自己に対する意識とがあると思う。
 
 フランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルは、前者を対他的存在、後者を対自的存在と呼んだ。
 
 そもそも、人間においての苦しみの大部分は、他者に対する意識に起因するものであり、そして、その他者に対する意識は、元を辿れば、己自身に、その問題の解決をひも解く根源的な要因がある、ということが明らかになるのである。

 詰まるところは、人間においての苦しみの要因の究極とは、他者にあるのではなく、己自身にある、と観るのが、釈迦仏教の基本的姿勢であるのだと思う。

 人は、往々にして、他者を謗(そし)ったり、他者の言動に対してああだこうだと文句を言ったりする。そして、そういったものは、たとえ、人が他者に、あるいは己自身に、どうだこうだと文句を言ったとしても、それらの不満は何ら解消されるものではなく、他者への謗りや愚痴は、単なる場当たり的なものでしかない。

  別の言い方をするなら、それらは単に、自らの自我を一時的に安定化しているにすぎないのである。 

 さらには、そういった行為は、他者のみならず、自分自身(自己)に対しても悪因をつくるものであり、その悪因は、さらなる悪因を呼び寄せることとなる。(ここで言う悪因とは、形而上学的な意味合いで言っているのではない。)
 
 つまり、そういった行為が断続的に行われたとしても、自らの内にある不満は増幅されるばかりであり、仏道とは、そういった負の連鎖を断ち切ることを根本とするものであると私は思っている。

 そもそも、そういった他者や自分自身に対する愚痴や謗りというものは、人間の「本能」に由来するものであり、それは人間においての「脳の機能」に起因するものであると思う。

 では、そういった人間においての「本能」や「脳の機能」に反逆してまでも、それらの負の連鎖を断ち切るにはどうすればよいのか?

 その基本的な解決法とは、大まかに言えば、段階的に言って、二つあると思う。

 その一つとは、その要因のメカニズムを知ることであり、そして、もう一つは、そういったことに関して常に「気をつける」ということである。

 具体化して言えば、それらの要因とは、経験的によく観察してみれば、根源的に、自分自身の「不満」に原因があることが分かるのである。

 つまり、まず最初に、その原因が自らの「不満」にあることを知り、究極に言えば、自らの「不満」とは、その大部分が自分自身が無意識のうちに作り出しているものであり、それをよく知って、自らが不満を作り出さないように常に「気をつける」ということが重要であると思う。

 ただ、こういったことが馬鹿馬鹿しいと思う人は、仏教には縁のない人であり、本能の為すがままに、思いゆくままにそうすればいいのである。

 さらには、昔の賢者たちは、あるいは諸々のブッダたちは、そういったことを知っており、悪の因をつくらないのである。

 「思慮ある人々は、世のありさまを知って、実に業をつくることがない。思慮ある人々は、よく理解して、縛(いまし)めを解きほごし、世の中にあって執著をのり超えている。」(『サンユッタ・ニカーヤ』第一集〈サガータ篇〉=『ブッダ神々との対話』P.58 中村元訳・岩波文庫 )

 悪業は、現世において、人(自己と他者)を介して、次々と感染し増幅していくのである。

 そして、人は、そうならないように、常に気をつけ、常に己と様々な事象とを観察することによって、「安らぎ」に安住するのである。

 もちろん、そういった手法や修業に対して、慢心に陥ってはならず、「安らぎ」を求めることにも執着してもならない。

 古い 経典に登場するブッダは、われわれにそのことを教えてくれるのである。

 そもそも、おそらく歴史的人物としての人間ゴータマ・ブッダは、仏教の開祖となる意識も、他者を変えようとする意識はなかったと私は観ている。

 『ディーガ・ニカーヤ 16』マハー・パリニッバーナ・スッタンタに登場するブッダは、次のように語っている。

 「『わたくしは修業僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修業僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修業僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は『わたくしは修業僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修業僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修業僧のつどいに関して何を語るであろうか。」(『長部経典16』大パリニッバーナ経 =『ブッダ最後の旅』P.62 中村元訳・岩波文庫)

 さらには、ブッダは、世界を変革させようとする意図もさらさらなかったのだと思う。

 釈迦が見い出した心の平安(安らぎ)に至るための手法とは、人間の本能に、あるいは脳の機能に反逆するものである。

 過去に生きた賢者たちは、諸々のブッダたちは、そのことを知っていたのである。

 そして、諸々のブッダたちは、過ぎたことに対して後悔することもなく、未来に対して心配することもなく、ただ今を生きているのである。

 経典は次のように語っている。

 「かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。
どころが愚かな人々は、未来にあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために、萎(しお)れているのである。ー 刈られた緑の葦のように。」(『サンユッタ・ニカーヤ』第一集〈サガータ篇〉=『ブッダ神々との対話』P.20 中村元訳・岩波文庫 )

 このようにしてわれわれは、人間においての他者への愚痴や謗りの要因が、己(自分自身)の「不満」にあることを知り、それらの事象を常に観察することによって、よりよい人生を送れるようになるのである。

第17章 他者への忠告について

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  私は、本稿において、最初期の仏教で何が説かれていたのか、ということについて、その詳細を述べてきたわけであるが、実は「ブッダの言葉」の核心とは、ただ次の一つの言葉によて要約できると私は思っている。
 
 つまり、ブッダの「言葉」の核心とは、「自分が正しいと思わない」ということ、ただこの言葉の一言に尽きると思う。
 
 世の中においての争いや論争の源泉は、それを深く掘り下げて観察するなら、究極に言えば、「自分が正しい」という思いに起因している、ということが分かってくるのである。
 
  そもそも、一体、自らの主張が正しいという根拠とその確証は、どこにあるのだろうか?
 
 そして、その「自らが正しい」と思っているその主張は、すべての人に妥当するものなのだろうか?
 
 さらに、他者との争いや論争の引き金となるものは、前章での論点でもあった「他者への謗り(そしり)」や「他者への非難」だけではない。

 「他者に対しての誤りを指摘すること」や「他者への忠告」もまた、往々にして(指摘者が、よほどの熟達者ではない限り)争いや論争の引き金となる場合が多いと思う。
 
  つまり、「他者に対しての誤りを指摘すること」や「他者への忠告」というものは、「他者への謗り」や「他者への非難」と同様に、程度の差はあっても、基本的には、「自分が正しい」という思いに基づいており、前者と同じ構造から成り立っているものであると私は捉えている。
 
 多くの人は、一体何ゆえに、他者のことが気になるのだろうか?
 
 そして、多くの人は、一体何ゆえに、自らを基準として、他者に対しての誤りを指摘したり、あるいは、自分の価値観を物差しとして他者を(自分の思いどおりに)変革させようとするのだろうか?
 
  それは、他者の言動を気にすること、そして、自らの価値観を基準として他者を変革させようとすることが、人間の本能に由来しているからだと思う。
 
 人は、他者のことを気にすることによって苦しむ。
 
 換言すれば、人は、他者の言動を過剰なまでに気にすることを阻止できなければ、苦しみは減少するどころか、知らずしらずのうちに、雪だるま式に膨れ上がっていくのだろう。
 
 自分のことは蚊帳の外に置きながらも、他者のことを過剰なまでに気にする人は、自らが苦しみの連鎖(古代インド人は、これを輪廻と呼んだ)から抜け出ることは難しい。
 
 私は、ブッダの境地に至っている人は、自らに不満はなく、そして、自らに不満がないからこそ、他者に関して、相手から要求されて(聞かれて)もいないのに、強引に他者の誤りを指摘したり、あるいは、他者への忠告をするようなことはないのだろうと思っている。
 
 つまり、究極に言えば、人(他者)のことは、どうでもいいのである。(このことは、困っている人を助けるな、というような意味ではない。)
 
 ところで、最古層の経典には、奇妙なことに「慈悲の思想」は全く説かれておらず、ただ執着するな、ということのみが説かれている。
 
 一説によれば、「慈悲の思想」はゴータマ・ブッダが説いたのではなく、実は、仏弟子のサーリプッタが説いたとも言われている。 
 
 その真相は分からない。
 
 ただ一つ、確実に言えることは、パーリ・ニカーヤ全般に説かれている内容と古い経典で説かれている内容とは、かなり違っている、ということである。
 
 そのことは、間違いないと思う。
 
 仏教は、時代の流れと共に、幾度となく教義の変更があったのだと思う。
 
 つまり、仏教は、ある段階から、修行者にも死後の世界のような「形而上学的教義」が説かれるようになり、他者への「救済の思想」が説かれるようになっていったのだろう。
 
 そして、それらが仏教の中心的な思想となっていった。
 
 そういった仏教内の変革が随時行なわれることによって、さらには、最初にはなかった新たなる思想を取り込んだ経典が増広されることによって、仏教は一般民衆の心を掴み、世界宗教の一つとなり得たのだろう。
 
 文字として書かれたものは、そして、言葉として説かれたものは、仏教の根幹そのものではない。
 
 仏教の真理とは、言語領域のものでは完全には語り得るものではないからである。
 
 そして、そういったことを逆手にとって、そういうあなたは、仏教に固着している、と言う人がいるなら、その人は、ブッダの教えを知らない人である。
 
 仏教で説かれる真理とは、言葉で語り尽くせるものではなく、言葉にして語ったその時点において、それではない、ということになる。

誤解のないように、私は、本稿で述べられていることを、あなたもそうしなければならない、あなたもそうすべきであると言っているのではない。

第18章 仏教最古の経典について

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  ここまで読んだ読者の中には、次のように思う人がいるに違いない。
 
 あなたが言っていることは分かったが、あなたがそう言っている根拠となる「最古層の経典」とは、何という経典なのか、と。
 
 それについての概略を少しばかり説明しておこう。
 
 まず最初に、仏教学において歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの思想的な根幹に迫り得る最も重要な資料となるのは、現存する最古層の経典であると言われる『スッタ・ニパータ』の中に含まれる「アッタカ篇」と「パーラーヤナ篇」という経典である。
 
 「アッタカ篇」とは『スッタ・ニパータ』の第4章、「パーラーヤナ篇」とは『スッタ・ニパータ』の第5章のことである。(ただ「パーラーヤナ篇」の最初と最後の経は、後代の付加であるらしい。)
 
 *『スッタ・ニパータ』の翻訳本としては、中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫)がある。
 
 そして、「アッタカ篇」と「パーラーヤナ篇」の次に古いと考えられる経典として、われわれは「サガータ篇」を挙げなければならない。
 
 「サガータ篇」とは『サンユッタ・ニカーヤ』の第一篇を指すものである。
 
 *『サンユッタ・ニカーヤ』の第一篇の翻訳本としては、中村元訳『神々との対話』(岩波文庫)と『悪魔と対話』(岩波文庫)がある。
 
 「サガータ篇」は、「アッタカ篇」と「パーラーヤナ篇」に続いて、私は、史実としてのゴータマ・ブッダに近づき得る重要な経典であると思っている。
 
 ちなみに、中村氏は、「サガータ篇」は、『スッタ・ニパータ』の第1章~第3章よりも古いと言っている。
 
 これらの三つの経典は、仏教の経典の中でも、釈迦の存命中に近い資料を示すものとして極めて重要であると考えられる。
 
 もちろん、スリランカの上座部仏教に伝わる「五つのニカーヤ」も重要である。さらに、「五つのニカーヤ」とは、「三蔵」(「経蔵」「論蔵」「律蔵」)の中の「経蔵」のことを指している。
 
 ちなみに、「五ニカーヤ」(に含まれる経典)とは、すなわち―
 
『長部経典』(ディーガ・ニカーヤ)
『中部経典』(マッジマ・ニカーヤ)
『相応部経典』(サンユッタ・ニカーヤ)
『増支部経典』(アングッタラ・ニカーヤ)
『小部経典』(クッダカ・ニカーヤ)
 
 である。
 
 そして、本稿が最も重要視する最古の経典「アッタカ篇」と「パーラーヤナ篇」とが収録されている『スッタ・ニパータ』とは、「五ニカーヤ」の中の『小部経典』(クッダカ・ニカーヤ)の中に含まれている。
 
 仏教全般としては、重要な経典は初期経典だけではない。『法華経』や『浄土三部経』なのど経典も、とても素晴らしい思想を含むものであると思う。そこに説かれている世界観は、慈悲の精神に満ちている。
 
 最後に、ここまで飽きずに読んでくださった読者の方々には、只々感謝するのみである。
 
 さらに、本稿において、不足している部分があるとすれば、それは新鋭なる研究をされる読者や、あるいは、瞑想や自らの実体験を持って実践された方々によって、補足されるだろうと思う。
 
 本稿を読むことによって、仏教の経典や哲学書などを一冊でも直に開く読者が一人でもいるとするなら、本稿の目的は達成できたものと見做してよいと私は思っている。

 それと、ここで、magさんから学んだことは、あまりにも計り知れない。この場を借りて、心から感謝の言葉を申し上げます。(dyhより)

真実の仏陀 序章

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 世の中には、多くの異なった種類の仏教が存在している。
 
 そこには、経典ごとに異なった教えが説かれているだけではなく、原始仏教聖典においては、同じ経典においても、異なった教えが混在したりもする。
 
 そして、神秘主義的な色彩の強い大乗経典には、ブッダは別の世界に住しており、さらには原始仏教聖典においてでさえも、ゴータマ・ブッダは、おおよそ人間とは思えない超越的な存在者として描写されているものも少なくはない。
 
 一体、仏教の事実上の開祖であるゴータマ・ブッダという人は、数多くの異なった種類の教えを説いていたのだろうか?
 
 それともそもそもブッダの教えは矛盾だらけの教えを説いていたのだろうか?
 
 あるいは、ブッダは一人ではなく、複数のブッダが存在し、異なったブッダによって、ゴータマ・ブッダの名のもとに、全く違った多くの種類の教えが説かれた、ということなのだろうか?
 
 仏教を学ぶ者で、こういった疑問を抱く人は、おそらく私だけではないと思う。
 
 史実としてのゴータマ・ブッダは、一体、何を説いたのか?
 
 私は、長い年数をかけて、この問題に真剣に取り組んでいった。
 
 さらに、仏教というものを、より深く追求していくことにより、あるいくつかの事実が判明し、それらの難題は次第に氷解していった。
 
 それは、原始仏教聖典は、一般的に言われているように、ある時期に同時に、一人、あるいは少人数の人によって書かれたものではなく、複数の人の手によって、しかも長い年数をかけて、経典は制作されていった、ということである。
 
 そして、さらに重要なことは、原始仏教聖典の中には、他の経典とは比較にならないほど古い「最古層の経典」というものが存在し、そこで説かれていることが、他の経典で説かれているものとはかなり異なっている、ということである。
 
   ※ 本稿でいう「最古層の経典」(「釈迦仏教の根本思想について」の根拠となる経典)の詳細は、本稿の第18章の後半部に列挙している。
 
 最古層の経典に登場するブッダの言葉には、比較的新しい層の初期経典で説かれるような理屈がましい教説はなく、仏教哲学用語さえもない。いたってシンプルである。
 
 つまり、 そこに説かれている内容を、言い換えれば、「釈迦仏教の根本思想」を分かりやすく解説するのが、本稿の仕事である。
 
 なお、本稿は、細心の注意をもって初心者にも分かりやすいように書いたつもりであるが、初めて読まれる方は、第1〜2章を飛ばして、第3章から読まれることをお薦めする。
 
 一般的にはほとんど知られていないこれらの内容に、多くの読者は驚かれるに違いない。

                                   
                           
      2013年9月  長崎市平和町"平和公園"にて

仏教と利他について

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 人は、特定の他者の言動を気にすれば苦しむ。
 
 究極に言えば、そういうことだと思う。
 
 特定の他者の言動を気にする、ということは、その根源を深く掘り下げていくなら、それは、他者を(自らが正しいという)自らの「ものさし」をもって変革させようとすることにあるのだと思う。
 
 歴史的人物としてのゴータマ・ブッダは、相手が望まない限りは、他者のところに押しかけて、教えを説くことはなかっただろうと私は思っている。

 つまり、相手が望まない人に対して、教えを押し付けがましく説くことはなかったのだろう、ということだ。

   もちろん、それは困った人を無視せよという意味ではない。
 
 これは、私が、最古層の経典を読んだ結論であり感想である。
 
 もちろん、相手が、教えを望んで(教えを聞きに)来た場合は、全く別の話である。
 
 そういった中で、仏教は、釈迦の滅後、「慈悲」という名のもとに、望まない人にまで教えを説こうとする機運(意識)が高まっていき、それが、まさに仏教の(変化の)歴史だと思う。
 
 仏教は、おそらくは、原初のままで、そのままの状態を保っていたのなら、その捉え方に共感する人は極めて稀であり、世界宗教の一つにまで登りつめることは到底なかっただろうと思う。
 
 しかし、もし仏教の原点に戻ろうとすれば、人は、特定の他者の言動を気にすれば、言い換えれば、他者を自らの「ものさし」をもって変革させようとすれば、苦しむ、ということであり、裏を返せば、特定の他者の言動を気にしなくなれば、あるいは、特定の他者を変革しようとする意識を無くせば、人の精神的な苦しみの大半は激減するだろうと私は思っている。
 
 どうしようもない精神的な苦しみを持っている人の中で、少しでもそれを軽減しようと思う人があれば、騙されたと思って、それを是非一度試してみることをお薦めする。
 
 つまり、ここでいう「それ」とは、特定の他者の言動を気にしない、そして、特定の他者を変革させようとしない、ということである。

  * 『スッタニパータ』第4章  参照

第14章 仏教哲学用語の成立時期について

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  一般的に、仏教で説かれる「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」などといった仏教哲学用語は、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダによって説かれたということになっている。
 
ところが、中村元氏は、「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」の成立時期について興味深いことを言っている。

それについて重要であると考えられる箇所を『中村元選集』から(四か所続けて)引用してみようと思う。(以下 引用)
 
『パーリ文「アリヤ・パリエーサエ経」がつくられたときには、中道も八正道もまだまとめられていなかったか、少なくとも重要視されていなかった。相当漢訳の原本がつくられたときに、漸く中道と八正道とがベナレス・サルナートの説法と結びつけて考えられていたが、しかし四種の真理の説は編纂者の念頭にはなかった。サルナートの説法と四種の真理とが結びつけられて考えられたのは、かなり後世のことだと言わなければならない。詩句(ガーター)の中にもサルナートの説法と四種の真理・八正道・中道と結びつけたものは一つも存在しない。』(『中村元選集・第11巻・p239)
 
「原始仏教の思想体系というと、人々は四種の真理(四諦)とか十二支による縁起(十二因縁)とかいうものをもち出して来る。しかしこれらの体系はかなり遅れて成立したものである。
まず古い詩句についてみるに、体系的な叙述はなされていない。興隆途上の初期の仏教徒は思想体系化への意欲をもっていなかったのであろう。仏教の勢威が或る程度確立してから体系化への動きが始まったらしい。最古の聖句には思想が極めて簡単なかかちでのべられている。」(『中村元選集・第14巻・P.3)
 
「四つの真理(四諦)を示す句は、仏教がまだマガダ国中心の宗教であった時代にすでに成立していたと考えられる。しかし四諦の説は仏教の最初の時期よりはかなり遅れて成立したと考えられる。」(『中村元選集・第14巻・P.317)
 
『ゴーダマ・ブッダが八正道を説いたかは疑問である。少なくともかれの活動の初期には説かなかったことである。(だからかれの最初の説法に八正道が述べられたという多くの経典の記載は、後世の虚構であり、後世になってかこつけたのである。)
八正道という定型句はかなり遅れて成立したものであるらしい。最古の詩句には、八正道はどこにも説かれていない。最も古い詩句や短い句においては、八正道にうちの一部だけを述べている。』(『中村元選集・第15巻・P.21)
 
 つまり、中村氏によれば、一般的に、仏教で説かれる「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」などといった仏教哲学用語は、ゴータマ・ブッダの時代には無かったか、あるいは、それらがあったとしても、さほど重要視されてはいなかっただろう、ということである。
 
  さらに中村氏は、最古層(古い韻文)の経典に記されている原初の形の「縁起」というものに関して、次のように解説している。

それについて重要であると考えられる箇所を、さらに『中村元選集』から(二か所続けて)引用してみようと思う。
 
 「縁起の観念は、古来仏教における中心観念の一つと考えられる。戒律の集成書のうちの叙述によると、世尊はウルヴェーラー村の、ネーランジャラー河の辺のぼだい樹の下にあって、足をくんで坐したまま、七日の間『解脱の楽しみを受けていた。』ところでそのときさとりを開くために観じたのが縁起の理法であるという。そのほか、縁起を観じてさとりを開いたという説明は聖典のうちの処々に散見する。この伝説が果たして歴史的事実を伝えているかどうかははなはだ疑問である。ブッダガヤーにおける釈尊のさとりの内容については聖典自体のうちに種々に異なって伝えられていて、必ずしも一定していない。以下において検討するように縁起説はかなり遅れて成立したものであるから、右の伝説はそのまま信用するわけにはゆかない。殊に十二の項目を立てる縁起説は最も遅れて成立したものであるから、後代の聖典作者が、縁起の思想を強調するあまり、釈尊のさとりの内容だとして、この場合に仮託してしまったのであろう。」(『中村元選集・第14巻・P41)
 
「原始仏教の縁起説といえば十二の項目を立てる縁起説(十二因縁)を以て説くことが従来一般に行われていた。十二の項目を立てる縁起説のほかに諸種の型式の縁起説が経典の中に説かれているが、それらの説は散文(長行)の部分にのみに出て来て、韻文の部分には出て来ないからどうしても遅れて成立した説だと言わねばならない。また散文の部分だけについて見ても、十二の項目を立てる縁起説以外の説がいろいろ説かれているが、散文の部分の諸説のうちでも、十二の項目の説は遅れて成立したと言わねばならない。十二の項目の説が遅く成立したことは、今日では原典批判をあまりやっていない学者の間でも常識として承認されている。まして原典批判を考慮する立場からは、当然さらに分析を進めて、その古いかたちを問題とせなばならない。
縁起というのは「甲に縁って乙が起ること」、すなわち甲が原因または条件となって乙が成立すること、という意味である。この概念を示す諸々の説が経典の中に説かれているので、それらを成立史的に研究するのが今の課題である。」(『中村元選集・第14巻・P.42)
 
 そして、中村氏は、次のようにも言っている。 

「一般的にいうならば、形而上学的ないかなる立場に関しても沈黙を守るという立場に関しても沈黙を守るという立場から縁起説が導かれる。
縁起説が形而上学的見解に反対するものであることは、他の点からも確かめられる。
 
釈尊がサーヴァッティ市の郊外の祇園にいいたときに漁師の子であったサーティが釈尊から聞いた教えをこのように理解していた。ー『まさにこの識別作用が流転し輪廻する。他のものとなることはない。』と。つまり識別作用が輪廻の主体であり、自己同一性をたもっているというのである。ところでなかまの修行僧たちはこれを承認得ず、<悪しき見解>であるとして、釈尊のところへつれていった。
釈尊がたずねた、『その識別作用とは何であるか?』サーティが答えた、『それはここかそこにおいて諸の善悪業の果報を受けるのである。』と。釈尊は批判した。愚かな人よ。わたしがこのように教えを説いたということを、汝はどうして知ったのか?わたしは種々のしかたで識別作用は縁生したものであると説いたではないか。ー縁によるのでなければ識別作用の生ずることはないと。』こういって、次に『何ものでもその縁によって識別作用が生じてその(縁となったもの)によって名づけられる。眼に縁って入りに関して識別作用が生じて眼の識別作用と名づけられる。』以下、鼻、舌、味、身、意に関してもそれぞれの識別作用が同様に述べられている。また後には十二の項目による縁起説も述べられている。」(『中村元選集・第14巻・P.161~162)

* これについて、より詳しく知りたい人は、『中村元選集』と併せて和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』参照

こういったことを念頭において、以下の結論が導かれる。
 
 (1)ゴータマ・ブッダの時代には、おそらく、一般的に仏教で説かれる「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」などといった呼称(仏教哲学用語)及び、そういった体系的な術語は存在しなかった可能性が高い。
 
(2)仏教の原初で説かれるところの「縁起」というものには、元々形而上学的な属性は含まれていなかった。というよりはむしろ、形而上学的ないかなる立場に関しても沈黙を守るという境地から縁起が説かれていた。

 いずれにしても、仏教においての古い韻文(ガーター)で説かれている内容は、とてもシンプルであり、さらにいくつもの複雑なカテゴリーに分類されて説かれるようになった仏教特有の術語は、ゴータマ・ブッダ(釈尊)の時代よりかなり遅れて成立した可能性が高いということである。

ただ誤解のないように、そうであるからといって、私は、それらが嘘であるとか、信じるに値しない、などと言っているのではない。

というよりはむしろ、「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」などといったものは、後代の人たちが、釈尊のエッセンスを凝縮し、分かりやすく纏めた仏教の中心的な思想の一つである、と私は観ている。

第18章 「アーサヴァの滅」について

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  仏教の経典には、仏教の核心に触れる箇所において、「アーサヴァ(asava)を滅する」という語が随所に散見するのであるが、古代インドの言語のエキスパートでもある山崎守一博士は、「アーサヴァの滅」の原意に関して、とても興味深いことを言っている。(「アーサヴァを滅する」という部分は、中村元氏が、「煩悩を滅ぼし尽くして」、あるいは「煩悩の汚れを滅し尽くして」と訳している箇所である。以下『沙門ブッダの成立~原始仏教とジャイナ教』P.157~160より引用)
 
 ブッダの教えは後世、様々な形で論理的に体系化されていくが、ブッダがネーランジャラー湖畔で何に目覚めたのかは、はっきりとわかっていないのが実情である。古い経典は随処において、「アーサヴァを滅ぼ尽くして、最後の身体をもっている」と説き、さらに、「アーサヴァを滅ぼ尽くした阿羅漢」という表現が見られる。
 
 最古の経典の一つと見なされる『ダンマパダ』において、 『覚りを得るための方法に正しく心を修め、執著なく愛著を捨てることを喜び、【アーサヴァを滅ぼ尽くして】、彼ら輝く人たちはこの世において涅槃を得ている。』(Dhp.89) 
 
 とあり、さらに、『スッタニパータ』では、 『精神を統一し、激流を渡り、最上の知見によって理法を知り、【アーサヴァを滅ぼ尽くして】、最後の身体を持っている如来、かれは、献菓を受けるに値する。』(Sn.471)と説かれている。
 
 激流とは輪廻の激流であり、最上の知見とは「全智者の智慧」であり、最後の身体を持つとは、もはや輪廻転生によってこの世に新たな肉体を受けることがないことを意味する。つまり、他の経典においては、最後の身体を持つことを、「再びこの世に戻らない」とも表現されているように、こては輪廻転生から解き放たれたことを意味し、当然のこととして、生まれることもなければ老いることもない。
 
 ところで、「アーサヴァを滅ぼ尽くして」の語源は、「キーナーサヴァ」(khinasava)であり、キーナ(khina 滅尽)とアーサヴァ(asava)との複合語である。アーサヴァの本来の意味は「漏れ込んでくる」ことであるにもかかわらず、仏教では、正反対の「漏出」と考えられ、通常、漏れ出る汚れ=煩悩と解釈されてきた。
 
 しなかしながら、仏教の姉妹宗教と言われるジャイナ教では、語源通りに霊魂に漏れ込んでくることを意味する。この語アーサヴァは、輪廻の大海という文脈の中で用いられ、【輪廻から解放されることを妨げるもの】である。なぜなら、船に漏れ込んでくる水は、かき出さないと船が沈んで対岸では到達できないからである。
 
 仏教においても古い詩節では、船に漏れ込んでくる水の意味を留めている。アーサヴァのない人こそ激流を渡った人であるとも言われ、『スッタニパータ』では次のようにも言う。
 
 『今日、われわれによってそれ(太陽)は見られた。よく世が明け、よく立ち昇り、その中に〔輪廻の〕激流を渡り、アーサヴァのない等覚者(よく目覚めた者)を、われわれは見た。』(Sn.178)
 
 『世間を知って、最高の目的を見、激流と海を横切って、繁縛のない、アーサヴァのないそのような人、彼を賢者たちは牟尼と知る。』(Sn.219)
 
 『かれは泥の中に横たわり、もがきながら、洲から洲へと漂流してきました。そしてその時、私は、〔輪廻の〕激流を渡った、アーサヴァのない等覚者(よく目覚めた者)を見ました。』(Sn.1145)
 
 これらの詩節に見られる「輪廻の激流や海を渡って」という表現からもわかるように、「アーサヴァを滅ぼ尽くす」とは、「煩悩(=漏れ出る汚れ)を滅ぼし尽くす」のような、従来、仏教でなされてきた解釈よりも、ジャイナ教で行なわれてきた「輪廻をもたらす原因(が入り込むこと)を滅ぼし尽くす」という解釈の方が、より文脈がはっきりしていると言えよう。こう見てくると、大阪大学教授の榎本文雄の指摘に基づけば、アーサヴァは、最初期の仏教でもジャイナ教同様、「漏れ出てくる煩悩」というよりは、「漏れ込んで来る水」に喩えられる輪廻の原因としての煩悩・愛欲と考えられていたことが理解できる。(引用 終わり)
 
 これに関連した話であるが、奈良康明氏は、一般的に仏教で「煩悩を滅する」と訳されてているときの「ニローダ」という語を「滅する」というよりは「堰き止める」と言った方がより原意に近いと言っている。
 
 さらに、最古層の経典である「アッタカ篇」や「パーラーヤナ篇」には、その冒頭から終始一貫して「よく気をつけて」という言葉が繰り返し述べられている。これは、それらの経典に続いて古いと言われる「サガータ篇」に関しても全く同様である。
 
 なお、「パーラーヤナ篇」に登場する釈迦は次のように言っている。
 
 『師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」』(Sn.1035)
 
 *ちなみに「塞がれる」という部分の註釈として、中村氏はこう言っている。「pithiyyare.pithiyyati(=pacchijjant 妨げる、Pj.p.586)これについては、ジャイナ教のほうでも同様の文句を伝えている(cf.Isibasiyaim,29,vv.1-2)」
 
 そして、「アッタカ篇」においては、その冒頭から次のように語られている。『スッタニパータ』のSn.768~771までの詩句を続けて引用しよう。
 
 『足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。』(Sn.768)
 
 『ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、』(Sn.769)
 
 『無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。』(Sn.770)
 
 『それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。』(Sn.771)
 
 それにしても、一体何ゆえに、最古層の経典に登場するブッダは、「よく気をつけて」という文言をあれほどまで多く連呼する必要があるのだろうか?
 
 それは、そのことが最初期の仏教において最重要事項であったと考えられないだろうか?
 
 さらに釈迦は、こうも言っている。
 
 『ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。』(Sn.1064)
 
 つまり、ここで釈迦は、真理を悟る智慧によって欲望を制することができると説いている。
 
 ということは、その文言をひも解けば、欲望を制するには、言い換えれば、苦を終滅させるには、それを制するメカニズム(真理、ダルマ)を知ることが不可欠であるということを諭しているのではないのか。
 
 もちろん、その最終的な境地においては、真理(ダルマ)さえも離れなければならないのであるが。
 
 cf.真理は筏に喩えられる。(Sn.21参照)
 
 話を戻そう。
 
 こういった意味合いを含めて、中村氏の説明を要約すれば次のようになるだろう。(以下『中村元選集・第12巻』P.296より引用。)
 
 『・・・・・・・・・これからわれわれは実践に関して重要な結論を導き出すことができる。すなわち、<解脱>とは熟睡のような一つの状態に安住することではなくて、われわれが過ちを犯すかもしれないその一つ一つについて不断に気づかっていることである。一つの戒めを守ることが、一つの解脱なのである。ニルヴァーナとはわれわれが不断に注意して実践していくことであり、それのみに尽きている。』
 
 要するに、奈良氏と中村氏の説明を一言で要約するなら、こういうことになると思う。
 
 人間の根源的な欲は完全に滅することはできない。しかし、修行によって、常にそれに気をつけて、それらを回避することによって、ニルヴァーナに到達することができる。その絶え間ない行為そのものが仏道なのである、と。
 
 しかし、こういった学者的な見解に対して、伝統的な仏教を信じる(重んじる)人たちの多くは、おそらく、この人たちは仏教について何も分かっていない、と反論するに違いない。
 
 これは、ほぼ間違いないと思う。
 
 だが、それらの人たちは、それを反論する、あるいはそうではないことを裏づけるだけの確たる根拠や証拠を持ち合わせているだろうか?
 
 そもそも宗教や信仰というものは、あらかじめ「答え」が決められており、すべてがその前提を始まりとして語られるものであるから、それらの先入観を排除してスタート地点からものごとを考え直すという方向に向かわせることは限りなく困難に近いだろうと思う。
 
 なぜなら、最初から決まっている「答え」を解体し、再構築するとなると、信仰や自らが信じている思想体系の土台が揺らぐばかりではなく、その人にとって大いなる苦痛が伴うからである。
 
 もちろん、私は、私がそうであるから(最初から決まっている「答え」を解体し、再構築すること)、あなたもそうしなければならないとそれを他者に押し付けているわけではない。 
 
 では、そういうあなたは、今ここに論点としている「アーサヴァの滅」や「ニローダ」に関してどのような解釈をしているのか、はっきりさせてくれと懇願する読者が出現するに違いない。
 
 ここで、現時点の、私の個人的な意見を言っておこう。
 
 それは、中村-奈良説が7割、そして伝統的な解釈が3割、これが私の率直な感想だ。
 
 テーラワーダなども伝統的な解釈も、もちろん否定はできない。
 
 しかし、私にとっては、現時点において、最古層の経典を何度も読み返すことによって、伝統的な解釈よりも、新鋭なる学者の解説の方がより説得力があるように感じる、ということである。
 
 ちなみに、私にしてみれば、そういった解説に梵天などの神の話を持ち出されても説得力を感じない、ということになる。
 
 これに対して、おそらくこう反論される方がいるに違いない。
 
 それは、あなたはそうではない解釈を3割と言っているが、本当は0ではないのか、と。
 
 本音で言おう。
 
 伝統的な解釈が真実である可能性もあると思う。
 
 つまり、私には、それを断定的に否定する根拠もない、ということだ。
 
 言い換えれば、それも真実である可能性も十分にあると思っている、ということだ。
 
 ところで、特定の宗派や既存の信仰を信じている人にとっては、私のようなラディカルな人間は、煙たがれるものである、ということを、私はよく知っている。
 
 そして、彼らは、ついには私にこのように言うだろう。
 
 あなたは何も分かっていない、と。
 
 しかし、真理を追い求める者にとっては、今信じているものを、一度はすべて疑ってみることも重要なのではないか。
 
 なぜなら、特に仏教に関して言えば、何も疑わずに、誰かが言っていることをそっくりそのまま鵜呑みにするなら、それは嘘を嘘のまま信じ込んでしまっている可能性も否定できなくはないからである。
 
 再三言うが、私は、そういったラディカルな精神を他者の押しつけようとしているのではない。
 
 ただ、私は、そういったタイプの人間である、というただそれだけのことだ。
 
 『増支部経典』(アングッタラ・ニカーヤ)に含まれる「カーラーマ経」という経典の中に、「誰かが言ったからとて、それを鵜呑みにして信じることなかれ」といった文言がある。
 
 それは、仏教の中に、懐疑的な色彩が有していることの証拠だと思う。
 
 宗教者が言っていることを疑う、思想家が言っていることを疑う、彼らが主張していることをそっくりそのまま信じ込まず、それを信じるために一つ一つ検証・吟味してみる。
 
 少なくても、古い経典に登場するゴータマ・ブッダの原点は、そこにあったことは間違いない事実であると思う。
 
 その証拠に、釈迦は、当時当たり前として信じられていた形而上学的見解をことごとく排斥したのだから。(もちろん、釈迦はそれを否定していない。そして、釈迦は、在家者には、当時一般的に信じられていた死後の応報思想をそのまま肯定していた。)
 
 ただ、究極に言えば、人は、問うても答えの出ない問題(形而上のもの)を追求しているうちに、短い人生は終わってしまうのである。(「中部経経典63」参照)
 
 結局のところは、「すべての疑惑を排する」ということ(疑惑のない人)の原点には、つまりそのスタート地点には、「人が言ったことをそっくりそのまま信じ込まない」といった懐疑的な精神が必ずあったに違いないと思う。
 
 釈迦のとった手法とは、他の宗教のそれとは明らかに異なっている。
 
 それは、釈迦は、自らの経験によって裏づけされたものしか相手にしない、ということである。
 
 私が知っている中で最も仏教を熟知している(私がそう思っている)ある方が言っておられた。
 
 釈迦の手法とは、それを敢えて言えば、理をもって理から離れる、ということだ、と。
 
 理をもって理から離れる、ということ。
 
 これは、私は、釈迦仏教の根幹であると思っている。
 
 ちなみに本章の結論を言おう。
 
 ブッダは臨終に際して、次のように言ったと伝えられている。
 
 「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう、―もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成しなさい」と。(「大パリニッバーナ経」第3章・51)
 
 詰まるところは、仏教の最も重要なる教えとは、無常を覚ること、そして修行に精進すること、この二つに尽きる、そういうことだと思っている。

第19章 「想いからの解脱」について

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 ゴータマ・ブッダが目指したのは、今生の生存を最後に「二度と生を受けないこと」であった。

 言い換えれば、「不死、すなわち、二度と生まれない」ことだった。

 そして、そのことは、当時の沙門たちの間では、「輪廻からの解脱」と呼ばれていた。

 「輪廻からの解脱」とは、永劫回帰する(死を繰り返す)輪廻転生から脱却する「苦の終滅」を意味する総括的な呼称である。

 ただ、最古層の経典に登場するブッダの言葉を信じるなら、「輪廻からの解脱」を求めて「輪廻からの解脱」たる「苦の終滅」した境地に至る最終段階においては、「死後の世界」(輪廻転生)に対しての願い(天生や輪廻からの脱却)やそういったものに対する執着さえも捨て去ら(離れ)なけばならない、というこだと私は理解している。

 言い方を換えれば、「死後の世界」(輪廻転生)に対しての願いやそういったものに対する執着を捨て去らなければ、すなわち、そういった「想い」から解脱し(離れ)なければ悟れない、つまり苦が終滅する境地は体現できない、ということだと思うのだ。

 悟りに至るためには、悟りに対する執着さえも捨て去らなければならない、とテーラワーダの僧侶は言っている。

 全くそのとおりだと思う。

 つまり悟った人には執着するものが何ひとつない、ということであり、そこが悟りの難しさであり、さらには、そういったところがブッダの理法の理解し難い部分でもあると思う。

 根本的に言えば、私は、人間の自己保存欲動と先入観とが、その理解を難しくさせている根源的な源泉だと思っている。

 すなわち、人間の自己保存欲動や真理を覆い隠している先入見や固定概念を除去しなければ、ブッダの理法は見い出せない、ということだと思う。

 平たく言えば、人間の自己保存欲動や先入見を排した境地が、仏教でいうところの「ありのままの世界」である、ということになると思う。

 そもそも「輪廻からの解脱」たる「苦の終滅」した境地、すなわち「想いからの解脱において解脱」した人には、見解や主張はない。私は、そのようにイメージしている。

 なぜなら、そこには「想い」がないからである。

 だから、悟っている人に、悟った人は死後にどうなるのか、どこへ行くのか、消滅するのか、それは常住なのかと問われても、悟っている人には、それに対する「想い」がないのだから、「想いから解脱」してしまっているから、つまりそれを「測る基準」そのものがないなのだから、そこには答えそのものがない、ということになる。

 なお、最初期のジャイナ教においても、その最終段階においては、形而上学的なものから離れることが説かれており、それはまさに最初期の仏教と共通する部分であると思う。

 要するに、最終的には、形而上学的な議論や「想い」から離れなければ悟れない、ということなのだろう。

 だから、釈迦の時代の仏教においては、アートマン(霊魂)や死後の世界の存在や死後の認識作用などといったもの(輪廻転生説)が否定されることもなかった、ということだと思う。

 つまり、アートマン(霊魂)の存在や輪廻転生などの死後の世界の存在を否定することは、釈迦の悟りではない。私は、そう思っている。

 そして、在家者にはアートマン(霊魂)の存在を想定した死後の世界の存在が暗黙のうちに承認され、死後の応報と天生の思想が説かれるのである。

 その一方において、究極の境地に至った修行者には、死後の世界の有無に関する見解は存在しない。

 「想いからの解脱において解脱」した人には見解や主張はないからである。

 そして、「輪廻からの解脱」の「輪廻」が真実か方便か、ということについては、想いからの解脱において解脱した人(如来)には、それを測る基準そのものがないから、それが真実か方便かという想いさえもない、つまり、その解答は無記なのであろうと思う。

 そこには、そもそも、それを測る「ものさし」がないのである。

 「想いからの解脱において解脱」した人には、他者の見解や主張を否定する、ということがない。

 他者の見解や主張を否定することがない境地には、争いや論争が生じる余地が微塵もなく、心が静まりかえっているのである。

針と棘

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  少し前に、RADWIMPS(ラッドウィンプス)というアーティストが「×と○と罪と」というNEW ALBUMを出した。そのCDのいちばん最後に「針と棘」という曲が収録されている。作詞・作曲、野田洋二郎。

 この仏教ブログで、一体どうしてRADWIMPSの曲の記事を書くのかといえば、それは、今言ったRADWIMPSの「針と棘」という曲が、仏教の根本の一つを語っている言葉だと思うからだ。
 
 
 
 
 なかなか歌詞だけではこの曲の真意は分かりにくいと思うので、興味がある人は、本人が歌っているものを是非直接聴いてみてください。最近、TSUTAYAでレンタルになっていたと聞きました。ちなみに、私はCDを買いました。
 
  あと、たしかこの曲のPVはないと思います。
 
 
 
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