人間においての意識とは、大まかに言えば、他者に対する意識と自己に対する意識とがあると思う。
フランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルは、前者を対他的存在、後者を対自的存在と呼んだ。
そもそも、人間においての苦しみの大部分は、他者に対する意識に起因するものであり、そして、その他者に対する意識は、元を辿れば、己自身に、その問題の解決をひも解く根源的な要因がある、ということが明らかになるのである。
詰まるところは、人間においての苦しみの要因の究極とは、他者にあるのではなく、己自身にある、と観るのが、釈迦仏教の基本的姿勢であるのだと思う。
人は、往々にして、他者を謗(そし)ったり、他者の言動に対してああだこうだと文句を言ったりする。そして、そういったものは、たとえ、人が他者に、あるいは己自身に、どうだこうだと文句を言ったとしても、それらの不満は何ら解消されるものではなく、他者への謗りや愚痴は、単なる場当たり的なものでしかない。
別の言い方をするなら、それらは単に、自らの自我を一時的に安定化しているにすぎないのである。
さらには、そういった行為は、他者のみならず、自分自身(自己)に対しても悪因をつくるものであり、その悪因は、さらなる悪因を呼び寄せることとなる。(ここで言う悪因とは、形而上学的な意味合いで言っているのではない。)
つまり、そういった行為が断続的に行われたとしても、自らの内にある不満は増幅されるばかりであり、仏道とは、そういった負の連鎖を断ち切ることを根本とするものであると私は思っている。
そもそも、そういった他者や自分自身に対する愚痴や謗りというものは、人間の「本能」に由来するものであり、それは人間においての「脳の機能」に起因するものであると思う。
では、そういった人間においての「本能」や「脳の機能」に反逆してまでも、それらの負の連鎖を断ち切るにはどうすればよいのか?
その基本的な解決法とは、大まかに言えば、段階的に言って、二つあると思う。
その一つとは、その要因のメカニズムを知ることであり、そして、もう一つは、そういったことに関して常に「気をつける」ということである。
具体化して言えば、それらの要因とは、経験的によく観察してみれば、根源的に、自分自身の「不満」に原因があることが分かるのである。
つまり、まず最初に、その原因が自らの「不満」にあることを知り、究極に言えば、自らの「不満」とは、その大部分が自分自身が無意識のうちに作り出しているものであり、それをよく知って、自らが不満を作り出さないように常に「気をつける」ということが重要であると思う。
ただ、こういったことが馬鹿馬鹿しいと思う人は、仏教には縁のない人であり、本能の為すがままに、思いゆくままにそうすればいいのである。
さらには、昔の賢者たちは、あるいは諸々のブッダたちは、そういったことを知っており、悪の因をつくらないのである。
「思慮ある人々は、世のありさまを知って、実に業をつくることがない。思慮ある人々は、よく理解して、縛(いまし)めを解きほごし、世の中にあって執著をのり超えている。」(『サンユッタ・ニカーヤ』第一集〈サガータ篇〉=『ブッダ神々との対話』P.58 中村元訳・岩波文庫 )
悪業は、現世において、人(自己と他者)を介して、次々と感染し増幅していくのである。
そして、人は、そうならないように、常に気をつけ、常に己と様々な事象とを観察することによって、「安らぎ」に安住するのである。
もちろん、そういった手法や修業に対して、慢心に陥ってはならず、「安らぎ」を求めることにも執着してもならない。
古い 経典に登場するブッダは、われわれにそのことを教えてくれるのである。
そもそも、おそらく歴史的人物としての人間ゴータマ・ブッダは、仏教の開祖となる意識も、他者を変えようとする意識はなかったと私は観ている。
『ディーガ・ニカーヤ 16』マハー・パリニッバーナ・スッタンタに登場するブッダは、次のように語っている。
「『わたくしは修業僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修業僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修業僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は『わたくしは修業僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修業僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修業僧のつどいに関して何を語るであろうか。」(『長部経典16』大パリニッバーナ経 =『ブッダ最後の旅』P.62 中村元訳・岩波文庫)
さらには、ブッダは、世界を変革させようとする意図もさらさらなかったのだと思う。
釈迦が見い出した心の平安(安らぎ)に至るための手法とは、人間の本能に、あるいは脳の機能に反逆するものである。
過去に生きた賢者たちは、諸々のブッダたちは、そのことを知っていたのである。
そして、諸々のブッダたちは、過ぎたことに対して後悔することもなく、未来に対して心配することもなく、ただ今を生きているのである。
経典は次のように語っている。
「かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。
どころが愚かな人々は、未来にあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために、萎(しお)れているのである。ー 刈られた緑の葦のように。」(『サンユッタ・ニカーヤ』第一集〈サガータ篇〉=『ブッダ神々との対話』P.20 中村元訳・岩波文庫 )
このようにしてわれわれは、人間においての他者への愚痴や謗りの要因が、己(自分自身)の「不満」にあることを知り、それらの事象を常に観察することによって、よりよい人生を送れるようになるのである。