人は、特定の他者の言動を気にすれば苦しむ。
究極に言えば、そういうことだと思う。
特定の他者の言動を気にする、ということは、その根源を深く掘り下げていくなら、それは、他者を(自らが正しいという)自らの「ものさし」をもって変革させようとすることにあるのだと思う。
歴史的人物としてのゴータマ・ブッダは、相手が望まない限りは、他者のところに押しかけて、教えを説くことはなかっただろうと私は思っている。
つまり、相手が望まない人に対して、教えを押し付けがましく説くことはなかったのだろう、ということだ。
もちろん、それは困った人を無視せよという意味ではない。
これは、私が、最古層の経典を読んだ結論であり感想である。
もちろん、相手が、教えを望んで(教えを聞きに)来た場合は、全く別の話である。
そういった中で、仏教は、釈迦の滅後、「慈悲」という名のもとに、望まない人にまで教えを説こうとする機運(意識)が高まっていき、それが、まさに仏教の(変化の)歴史だと思う。
仏教は、おそらくは、原初のままで、そのままの状態を保っていたのなら、その捉え方に共感する人は極めて稀であり、世界宗教の一つにまで登りつめることは到底なかっただろうと思う。
しかし、もし仏教の原点に戻ろうとすれば、人は、特定の他者の言動を気にすれば、言い換えれば、他者を自らの「ものさし」をもって変革させようとすれば、苦しむ、ということであり、裏を返せば、特定の他者の言動を気にしなくなれば、あるいは、特定の他者を変革しようとする意識を無くせば、人の精神的な苦しみの大半は激減するだろうと私は思っている。
どうしようもない精神的な苦しみを持っている人の中で、少しでもそれを軽減しようと思う人があれば、騙されたと思って、それを是非一度試してみることをお薦めする。
つまり、ここでいう「それ」とは、特定の他者の言動を気にしない、そして、特定の他者を変革させようとしない、ということである。
* 『スッタニパータ』第4章 参照