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Channel: 釈迦仏教の根本思想について
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第8章 無我について

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 仏教で説かれる「無我」(非我)の「我」とは、先の章(第7章・アートマンについて)で述べたように、人間の本体として想定される、「形而上学的な意味合いでのアートマン」として捉えることが可能であろう。
 
 ところが、それにもまして重要なことは、最古層の経典において、「無我」(非我)の「我」とは、「私」と「私のもの」という意味として説かれている、ということである。
 
 つまり、そこで説かれている「無我」(非我)の「我」とは、(1)「私」とは無常であり、常住ではない、私は死ぬものであるということ、そして、(2)「私のもの」とは、私が「私のもの」「私の所有物」と思っているものも無常であり、常住ではない、いずれは無くなってしまうものである、とうことである。(もちろん、②「私のもの」は①「私」の中に含まれているとして、それらを総称して「無我」(非我)の「我」と解釈してもよいと思っている。)
 
 すなわち、仏教で言う無我(非我)とは、「私」というものは、死から決して免れ得ないものであり、さらに、私が「私のもの」「私の所有物」と思っているものとは、すべて、いずれは消滅してしまい、私のものでは無くなってしまうものである、という事実を、<ありのまま>の事実として<ありのまま>に知る、ということなのであろう。
 
 次の古い経典のガーター(詩句)は、仏教で説かれる「無我」(非我)の「我」の「私のもの」というものを、端的に言い表している言葉であると思う。
 
  『人々はわがものであると執着したもののために憂える。(自己の)所有したものは、常住ではないからである。この世のものはただ変化し、消滅すべきものである。 』(『スッタニパータ』Sn.805)
 
 『何物も自分のものでない、と知るのが智慧であり、苦しみから離れ、清らかになる道である。 』(『ダンマパダ』)
 
 私が「私のもの」であると思い込んでいる「私のもの」「私の所有物」とは、いずれは朽ち果ててしまい、失われてしまうものである。
 
 あるいは、私の「死」をもって、私が「私のもの」「私の所有物」と思い込んでいるものは、「私のもの」では無くなってしまうのである。
 
 人は、「私のもの」「私の所有物」とは常住であり永遠である、と思い込んでいるけれども、実はそうではないのである。
 
 さらに、古い詩句は、「無我」(非我)の「我」(=私)というものに関して、次のように語っている。私は、この『スッタニパータ』の「矢」という経は、先に引用した詩句と併せて、最初期の仏教の根幹を語っているものであると思っている。(以下、『スッタニパータ』Sn.547~593より引用)
 
  『この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。
 
 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。
 
 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。
 
  たとえば、陶工のつくった土の器が終りにはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。
 
 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。
 
 かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。 
 
  見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
 
 このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆ
きを知って、悲しまない。
 
 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。
 
 迷妄にとらわれて自己を害なっている人が、もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。
 
  泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
 
 みずから自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。
 
 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。
 
  見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。
 
  ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。
 
 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。
 
 だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
 
 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。──譬えば風が綿を吹き払うように。
 
 已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。』
 
 さらに、古い経典の詩句は、次のようにも語っている。(以下『ダンマパダ』より引用)
 
 『花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、―
 
 花を摘むのに夢中になっている人が、未だに望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。』(47~48)
 
 『大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟にいても、およそ世界の何処にいても、死の脅威のない場所は無い。』(128)
 
 そして、仏教においての死に対する姿勢は、『ダンマパダ』の次の言葉によって、集約できるであろう。
 
 『「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。―このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人があれば、争いはしずまる。』(1・6)
 
 つまり、経典には、人は、自らの「死」から逃れられない、人は死ぬものである、ということ、そして、「私」が「私のもの」であると思い込んでいる「私の所有物」もまた、いずれは無くなってしまうというこの理(ことわり)を真に知ったならば、心は静まりかえり、争いはなくなる、ということが説かれているのである。
 
 さらに、『スッタ・ニパータ』において「想念を焼き尽して」(Sn.7)と言われるように、想いから解脱す(解き放たれ)ること、そして、想いから解脱する、という想いからも解脱するということ、すなわち、それらを総称して、我執をなくす、ということが最初期の仏教で説かれるところの「無我」(非我)の根幹であると、私は思っている。
 
 
  「第9章 釈迦と輪廻について」に続く・・・・・↓

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